言語哲学入門

受講生の皆さん、今晩は。

早いもので、気がついたら授業は残すところ3回(12/9、12/16、1/13)となりました。1/20は休講にします。すでに期間外試験期間に入っていて忙しくなりますから、レポート執筆にその時間を当ててください。

さて残り3回を使って、予告した通り「本物の言語哲学」を知ってもらう計画です。
先ず明日は「世界」の中にヴィトゲンシュタインが見いだした二つの謎、「私」という不思議なポジション、場所と、経験の「対象object」の根源的な不確かさについて、解説する予定です。前回説明したように、私たちが自分の経験を意味付ける(言葉にする)ときに無意識に頼っているのが「論理空間」と呼ばれる可能な思考の全ルート図のようなものですが、その要素である「名」が意味する「対象」というものは、分かったようで分からないものです。かつてブニュエルという映画監督が『欲望の曖昧な対象』という映画を作りましたが、「欲望」のみならず、私たちのあらゆる経験の対象は実は根本的に曖昧であらざるをえないということをヴィトゲンシュタインは発見したのです。そのことの意義を敷衍したいと思っています。

また、「論理空間」(「論理宇宙」といったほうがイメージをつかみやすいかもしれませんが)がある意味で「世界」と「言語」と「生」の限界であるとしても、その中で言葉を発する<私>は単なる文の主語としての「私」ではないわけで、前者の<私>は一体どこにどのように位置づけられるべきなのか、というのが第二の謎です。以前「世界環仮説」として板書した図を想起してください。あのイメージをもっと豊かなヴィジョンに高めるための解説をしたいと思っています。