隠喩としての脳

最近の「脳ブーム」には興味はないが、脳科学者の茂木健一郎さんには非常に興味がある。脳あるいは脳研究をダシにつかう人が多い中で、茂木さんだけは、いつも警告を忘れない。数日前に「作家中村うさぎさん」が目に留まって切り抜きしてあった新聞のコラムを改めて読んでいたら、最後に茂木さんが登場していてちょっと驚いた。
朝日新聞2006年9月22日(金)夕刊1面「ニッポン人脈記・漂泊の現代7・欲望の暴走止まらない」
作家中村うさぎさんは、昨年私が「論理学入門」という講義で彼女のある文章を論理的読解の素材に使って以来、ちょっと気になる存在だった。自分を実験台にして自分の破滅的な消費欲望の暴走を観察し、それを文学というメディアで報告する彼女の綱渡りのような生き様に興味があった。

5年間で1億円はつぎ込んだかなあ。途中からブランド物が欲しいというより、お金を払うのが快感になった。脳内麻薬が出てて、それが快感で、脳内シャブ中状態だった。

そんな彼女に実際に会った茂木さんの感想が面白い。

彼女には子供がいないでしょ。自分の欲望を優先していたら、子供は育てられない。全部、脳の欲望っていう感じがする。脳って本当に無限を見ちゃうというか、自分が生物であることを忘れて暴走しちゃう存在なんですよ。

茂木さんに有って、中村うさぎさんに無いもの、それは「脳」を包む「生物」の視点、「脳」を超える「言語」の視点だ。生物の進化が生み出した脳が生み出した言語の働きの最先端は、脳を制御する力さえもつ。私は中村うさぎさんの文学よりも、茂木さんの言葉に言語の可能性を強く感じる。つまり、「脳」は隠喩でしかない、ただし最も強力で最も手強い隠喩。