論理学入門

受講生の皆さん、こんにちは。

今日は、
1)「08思考という刃の切れ味は抽象化によって決まる」を解説しました。読めば分かるように書いてある筈だと思いますが、第三パラグラフにおいて、今までとは違う角度から新たに導入した「概念」、「思考」、「認識」という用語に引っかかった人が多かったようです。それは、今までの講義をよく聴いていた証拠です。が、「言語レベルへ照準を合わせる」という基本線には全く変更はありません。しかも、「思考」や「認識」や「世界観」等の方が日常的には「論理空間」等よりずっとなじみはあるはずですよね。あまりアタマを固くしないようにしてください。論理はお固いものでは全くなく、むしろ普段固くなっているアタマを柔らかく解(ほぐ)すはずのものですから。この点に関しては6/2の記事に対するコメントで質問を寄せてくれた人への回答を参照してください。また、不明な点、疑問な点があれば、どんどん質問を。

2)高村薫さんの「「私」消え止まらぬ連鎖」と中村うさぎさんの「消費いざなう破滅願望」の論理的読解を行いました。両者ともに、「新・欲望論」というテーマで現代日本社会における「欲望」を独自の観点から論じた評論的エッセイです。個性が漲った個性的な文体を透視して主張のつながりとしての「論理」を追いながら、前者に関しては特に「根拠」から「結論」を導く「論証」を、後者に関しては特に「事例」から「仮説」を導く「推測」や「事例」からの一般化を重点的にチェックし、議論全体の構造を明らかにしようとしました。が、後半は時間がおして早口になってしまったので、下記の要点を読んで、本文を再度熟読しておいてください。次回おさらいします。

高村薫さんの「「私」消え止まらぬ連鎖」の議論は、高度消費社会は「私」が消えた(主体不在の)「欲望のサイクル」と化しているという事実認識を根拠にして、事故や犯罪に際しての責任追及の苛烈化と社会的制裁にともなう「心地悪さ」を説明しています。そして、誰もが欲望のサイクルの一員であることをうすうす感づいてはいるが、実際にはどうしようもない社会の現実を示唆して終わっています。

中村うさぎさんの「消費いざなう破滅願望」の議論は、消費による欲望の充足を追求することによって結果的に己の根源的な欲望(金で満たせない欲望)を知ることができることを理由に、消費による欲望の充足(金で欲望を満たすこと)は必ずしも悪いことではない(価値あるプロセスになる場合がある)という主張(結論)を導いています。さらに、破滅願望を伴う消費行動の経験から、根源的な欲望の対象とは「価値ある私」であるという結論を導くと同時に、それは現代人の究極の欲望であると一般化しています。

ところで、両者それぞれに独特の文体のリズムと印象に残る表現の工夫(妙)はそういうものとして味わうことが大切です。言葉は論理に尽くせるものではないことは言うまでもないことですから。しかし、議論の骨格をなす論理を見通すことによって、論理以上の「テイスト(味)」をより一層深く味わうことができるようになるのだということを知ってください。