連想の情報学vs.検索の情報学

昨年暮れに「想・IMAGINE Book Search」http://imagine.bookmap.info/imagineを取り上げて褒めた。
2006-12-21「メタ書籍検索エンジン:想-IMAGINE Book Search」
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061221/1166718254

昨日3月12日の朝日新聞の夕刊に、「「想・IMAGINE」の開発に携わっている高野明彦さん(国立情報学研究所教授)による「連想の情報学」の立場からの非常に興味深い記事が載った。
「思考に適した検索サイトとは/文章で入力 連想で抽出/潜在記憶と電子情報を連結」

高野さんによれば、「連想の情報学」の基本的な考え方はこうである。

我々の頭の中に眠る膨大だが意識的にはなかなか活用できない潜在記憶と、確かに存在しているが一度も見たことのない大量の電子情報を「連想」によって結びつけようとする試みである。

次に我々が「電子情報空間」、インターネット、つまりはウェブにおいて現在直面している文化的課題は次の点にある。

住みやすい街に道路や公園が欠かせないように、電子情報空間にも有用で高信頼な公共コンテンツが必要である。この「知の公共財」を社会全体としてきちんと維持して広く活用することが、その文化の底力となる。長い年月と多大な労力により維持されてきた高信頼なコンテンツは情報空間における”水源”の役割を果たすと期待される。

そのような「水源」としてすでに「ウェブキャットプラス」「新書マップ」「ブックタウンじんぼう」「文化遺産オンライン」などの情報サービスを立ち上げてきた高野さんたちは、それらに中核エンジンともいうべき「連想機能」を持たせた。

そしてさらにこれらの高信頼のコンテンツである複数の「水源」(情報源)を組み合わせて構築されたのが「想・IMAGINE」だった。「想・IMAGINE」の基本的な「コンセプト」は次のように説明されている。

複数の情報源からの”見え”を組み合わせることにより、私たちは電子情報空間の中での自分の位置を知り、どの方向に歩き出すべきかを判断できる。

具体的には次のような知的展望が拓ける、という。

多様で深みのある信頼度の高い情報源を複数横に並べて、ユーザがそこに自分の想いを文章として投げかけると、各情報源ならではの情報の見え(文脈)が返される。それらを書棚のように並べて一覧することで、さらに多角的な文脈、情報の景色が得られる。ユーザは各情報源の想いを読み解きながら歩き回り、その中から心に響く情報を取り上げて読み進む。その過程でユーザの想いは少しずつ変化し、それに呼応して情報源が示す情報の景色も変わる。想いが連なり連想に変わる。

高野さんは最後に「連想の情報学」のミッションについて力強く語っている。

知識や真実の価値を信じた先人たちの深い想いを、今ここに生きる私たちの切実な課題や思考と響き合わせて柔らかく接続できればと願っている。

遡って、このような「連想の情報学」の根本的な立場、観点はこうである。

私たちは誕生以来の記憶を恐らくはずっと潜在意識下で持ち続けながら、普段はほんの一部だけを思い出して使っている。つまり、自分の脳内の記憶を連想的に探索し、無意識下で関連情報を想起しながら思考すると考えられている。一方、情報空間には、決して眺め尽くせない大量の情報が存在し、そこから思考に役立つ情報を収集して活用することが求められている。考えてみればこの電子情報は私たちの潜在記憶に似ていないか。
このような観点から、我々は「連想の情報学」を提唱してきた。

そして高野さんが「連想の情報学」(といういわば正統的な知の伝統)の立場から手厳しく批判するのは現状のウェブ検索による情報編集である。

グーグルを自在に使いこなして自由な意思決定に役立てていると思い込んでいるが、それが本当かどうかはかなりあやしい。
指定した言葉の有無だけで探すウェブ検索は超強力なサーチライトのようなもので、地球の裏側まで見通せるが、その視野はひどく狭い。数語を指定して集めたページが関連する全知識の縮図だと錯覚しがちだが、実際はひどく偏った情報である。
そんな検索結果から役立つ情報をコピー&ペーストすれば、自分の意図に合う情報を簡単に収集できる。私たちはこの単純な検索作業を”自分の頭で考える”ことと混同しがちである。
ウェブ2.0」という流行語に乗って発信されるページはそんな”自分の考え”で溢れかえることになる。偏った情報に基づく論評がウェブ上で増殖する原因はここにある。

長々と高野さんの文章を解体して引用してきたが、私には高野さんが本当は何を批判し、本当は何が言いたいのか、はっきりしなくなった。先ず第一に、高野さんが批判するグーグル等の検索エンジンを駆使したウェブ上の情報編集は、あまりに矮小化されたイメージにすぎないと思われる。少し熟練した者なら、一本ではなく、何十本、何百本もの「サーチライト」を照らすような「極めて視野の広い」検索を行っているはずである。第二に、高野さんが強調する「高信頼のコンテンツ」、「多様で深みのある信頼度の高い情報源」における「信頼」の基準が「長い年月と多大な労力により維持されてきた」こと以上には明らかにされていない。揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、可能性としては「長い年月と多大な労力により維持されてきた」ゴミのような情報だってあるのではないか。あるいは、それは単に古い基準で価値づけられた情報でしかない、したがってある意味では「視野の狭い」ものになる可能性も否定できないのではないか。

何が言いたいかというと、高野さんの「連想の情報学」の提唱(と「想・IMAGINE」の紹介)と現状のウェブ検索と「ウェブ2.0的動向」に対する批判とは、適切な内的連関を欠いているのではないか、後者は的外れではないかということである。つまり前者のために後者を持ち出す必要は少なくとも論理的にはない。それはレトリカルに思える、ということである。

最後にひと言。
高野さんが批判する現状のウェブ検索に潜む立場を「検索の情報学」(の立場)と名付けておく。高野さんは「連想の情報学」対「検索の情報学」の構図を読者に共有させようとしている。しかし私はそのような構図はフィクションだと思っている。実際には「検索の情報学」の一部が「連想の情報学」である。あるいは「検索の情報学」という土壌で「連想の情報学」が育つ。なぜなら、そもそも検索技術がここまで進化したから、電子情報空間における「連想検索」も可能になったのではないか。しかも、もっと重要なことは、検索技術によって、逆に我々の潜在記憶の連想や想起のあり方が照らし出される可能性だってあるのではないか。