もの言わぬものたちへの心の寄せかた

いままで何度か人間の「格と器」について書き留めてきました。それには私自身の経験はもとより、梅田さんによるシリコンバレーのVCにはベンチャー経営者を評価するための人格データベースのような知恵の図書館があるらしい、という指摘やドキュメンターリー映画『六ヶ所村ラプソディー』を観て人格と器というものを痛感したことなどが関係しています。
そして今日、梅田さんから中山さん(「横浜逍遥亭」)を経由して、茂木さん(「クオリア日記」)を訪ねたら、不思議な縁で、「人格」をめぐる新鮮な言葉に出会うことができました。
2006/0804「もの言わぬもの」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/

最近になって「人格」の問題にとみに
興味が出てきたのは、それが
「私」という有限の存在が世界に向き合う
形式だと思うからである。

 「私」という意識が世界に向き合う
時、そこに人格が現れる。
 単に世界を受動的に認識する
だけでなく、働きかけ、
 不確実性を乗り越え、
投企していく

 ところが、人格は世界の中で
簡単には流通しない。
 インターネットの登場によって、
人々の中から、単離し、切り売りできる
リソースはどんどん流出するが、
 人格はそう簡単にはふわふわと
飛んでいったりはしない。
 
 しかし、ある人に出会って
一番印象に残るのは「人格」
であるし、
 自分自身の「人格」
を一つの芸術作品として
完成させる、というのは
全ての人の野心で良いのではないか。

 肝心なことは、そしてしみじみ
嬉しいことは「人格」に正解は
なくさまざまな形があり得るという
ことだろう。
(中略)
写真が世界と向き合う形式だとしたら、
そこには人格のオーラが反映されるの
かもしれない。

 人と人との出会いというものは、
実に、それぞれが銀河くらいうわーつと
でかい人格宇宙どうしの衝突
なのかもしれない。

 今日も、社会の中で大星雲と星団が
ぶつかり合っている

 うわあ!

 ぼくは人格の美しさと奥深さを
何よりも求めてやみません。

 つまりは、インターネットに溢れる
偶有性の海に自分を投企するとともに、
容易には流通しない、もの言わぬものたちに
心を寄せたい、ということであります。

私は茂木さんのよい読者ではありませんが、ブログを拝見しただけで、その具体と抽象を大胆かつ繊細に行き来する抜群のフットワークの良さが伝わってきました。茂木さんは「夢見つつ深く植える」ことを実践しているんだなぁと感じ入りました。私が考えて来た「格と器」の「格」に関して、茂木さんの上の言葉は新しい角度から光を当ててくれました。またブログも含めた「自己」の投企の冒険に関しても深く共感します。しかし、それ以上に私の心を打つのは「容易には流通しない、もの言わぬものたちに心を寄せたい」という茂木さんの強い希求です。それは私の見るところ、茂木さんの「器」の大きさの証です。蛇足ながら、西欧流の「人格」(personality)の文脈から「人」を外した「格」と「器」というコンセプトを深めていくと、「もの言わぬものたち」との豊かな繋がりをももっともっと「言葉」にしていけるような気がしています。