クオリアと群衆の叡智

茂木健一郎 クオリア日記』を読んでいて、茂木さんの「クオリア」観が、どこかで、インターネットにおける「群衆の叡智」観(梅田さん)につながるような気がした。
2006/08/23「一つひとつの「部分」をあるやり方で」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/08/post_d370.html

一つひとつの「部分」を、あるやり方で
積み上げていった時に、初めて
ある興味深い全体が生まれる。
(中略)
 もともと、クオリアは、個物が
関係性を積み上げると、いかにそこに
新しい実体が生まれるか、という問題である。

ここで、部分や個物を「個人(の活動)」、全体や実体を「価値」と読み替えることは、あながち間違いではないと思う。もちろん、「クオリア」の解明も、「群衆の叡智」の方法論化(そしてその一環としてのCrowdsourcingのビジネスモデル化)も一筋縄ではいかない超難問であることに変わりはない。しかし、インターネット上で何か面白い動きが生じることと脳のニューロン・ネットワーク上で何か新しいパターン群の「発火」が生じ、それが素晴らしい「ひらめき」や美しい印象のクオリアとして体験されることの間には相似性があるような気がする。一昔前に立花隆さんがインターネットをグローバル・ブレインと名付けたが、当時はまだぼんやりとしたイメージしか湧かなかった比喩が、今や俄然現実味を帯びて来た。