- 作者: ヴァルターベンヤミン,佐々木基一
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1999/11/05
- メディア: 単行本
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ベンヤミンから継承すべきことは、たんに複製技術によってオーラが消えたなどという陳腐な観察ではない。自然にしろ、芸術作品にしろ、およそ私の体験を私だけの一回限りのユニークで掛け替えのないものとして受容する能力がどんどん衰退しているという認識である。つまり、体験こそが複製されている、という認識。私は『複製技術時代における芸術作品』を複製技術時代における「私の体験」の変化(一種の衰弱)報告として読むべきだと思う。
そもそも、私の体験から切り離されたどこかで、「オリジナルの芸術作品が放つアウラ(オーラ)」など観察できるわけがない。しかし、未だにそのようなナイーブな認識線上で70年前の「オーラ」説が反復されているのを目にすることが多い。それでは、ベンヤミンを「読む」ことにはならないと私は思う。ベンヤミンのいう「オーラ」に神秘的な要素を無闇に持ち込んだりせずに、「オーラ」とは何かを正面から厳密に哲学的に科学的に問い、評価し、位置づけなければ、何も分かったことにはならない。私は次のように考えるのがいいと思う。
あるXの「オーラ」を語るとは、そこに語る者自身がつねにすでに巻き込まれている「私-オーラ-X」という体験の構造を語ることに他ならない。
「オリジナル」という概念も、「オーラ」も、純粋に客観的な対象物としての芸術作品の本質あるいは属性ではなく、私がそれを体験するときの、その体験の構造の質あるいは属性であると考えるべきで、私と芸術作品との出会いが「オリジナル」であれば、そこに必ず「オーラ」は生まれる。作品や自然そのものがオリジナルか複製かという違いは、私の体験にとっては、二次的なことにすぎない。また、例えば、ベンヤミンがオーラの範例としてあげる、山並みや木の梢を、空を流れる雲が落とす影が通過する時の一回限りの独特な印象なども、あくまで「それ」を体験しているベンヤミンにとってだけの「オーラ」であり、もし仮に私がそれと全く同じ情景を体験することができたとしても、私が感じる「オーラ」は私にとってだけの「オーラ」である。ベンヤミンの「オーラ」の定義(一回性、ユニークさ)に従うかぎり、そうでしかありえない。
ここから茂木健一郎さんの「クオリア」までは一歩である。「クオリア」はベンヤミンの「オーラ」を哲学的かつ科学的に何歩も前進させた非常に生産的な仮設的概念である。
- 作者: 茂木健一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/03/09
- メディア: 文庫
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