アウラとクオリア

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

およそ七〇年前に、ベンヤミンは『複製技術時代における芸術作品』の中で、技術の進歩によって人間と社会が無意識に蒙る深い変化の兆候を、「アウラ(オーラ)」の消失と特徴づけた。それは直接には写真や映画の隆盛によって、伝統的な絵画のような芸術作品が衰退していくことの意味を明らかにするという文脈で語られるのだが、私たちが思想的に継承すべきことは、技術一般、とりわけ情報技術にも応用できるようなベンヤミンの思考の普遍的な相である。そのためには私はベンヤミンを敢えて誤読する勇気を持つ必要があると思っている。

ベンヤミンから継承すべきことは、たんに複製技術によってオーラが消えたなどという陳腐な観察ではない。自然にしろ、芸術作品にしろ、およそ私の体験を私だけの一回限りのユニークで掛け替えのないものとして受容する能力がどんどん衰退しているという認識である。つまり、体験こそが複製されている、という認識。私は『複製技術時代における芸術作品』を複製技術時代における「私の体験」の変化(一種の衰弱)報告として読むべきだと思う。

そもそも、私の体験から切り離されたどこかで、「オリジナルの芸術作品が放つアウラ(オーラ)」など観察できるわけがない。しかし、未だにそのようなナイーブな認識線上で70年前の「オーラ」説が反復されているのを目にすることが多い。それでは、ベンヤミンを「読む」ことにはならないと私は思う。ベンヤミンのいう「オーラ」に神秘的な要素を無闇に持ち込んだりせずに、「オーラ」とは何かを正面から厳密に哲学的に科学的に問い、評価し、位置づけなければ、何も分かったことにはならない。私は次のように考えるのがいいと思う。

あるXの「オーラ」を語るとは、そこに語る者自身がつねにすでに巻き込まれている「私-オーラ-X」という体験の構造を語ることに他ならない。

「オリジナル」という概念も、「オーラ」も、純粋に客観的な対象物としての芸術作品の本質あるいは属性ではなく、私がそれを体験するときの、その体験の構造の質あるいは属性であると考えるべきで、私と芸術作品との出会いが「オリジナル」であれば、そこに必ず「オーラ」は生まれる。作品や自然そのものがオリジナルか複製かという違いは、私の体験にとっては、二次的なことにすぎない。また、例えば、ベンヤミンがオーラの範例としてあげる、山並みや木の梢を、空を流れる雲が落とす影が通過する時の一回限りの独特な印象なども、あくまで「それ」を体験しているベンヤミンにとってだけの「オーラ」であり、もし仮に私がそれと全く同じ情景を体験することができたとしても、私が感じる「オーラ」は私にとってだけの「オーラ」である。ベンヤミンの「オーラ」の定義(一回性、ユニークさ)に従うかぎり、そうでしかありえない。

ここから茂木健一郎さんの「クオリア」までは一歩である。「クオリア」はベンヤミンの「オーラ」を哲学的かつ科学的に何歩も前進させた非常に生産的な仮設的概念である。

クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)

クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)

ところで、昨日は「裏ウェブ進化論メモ」のようなものを書きました。私は、グーグルの「怖さ」を知るためには、100年、150年先まで想像力を届かせるような思考が必要だと思っています。それは普通のビジネスの観点からは悠長すぎてピンとこない長過ぎるスパンかもしれません。しかし、哲学・思想的には普通のスパンです。ベンヤミンが写真や映画の登場と隆盛に感得した何かに相当するものを、今私たちはグーグルに感じているのだと思います。グーグルが推進するテクノロジーによって失われるものは一体何なのか?それをちゃんと考える、認識することは、今後100年、150年先までを見通すことになるでしょう。今ベンヤミンの精神でネットやウェブの動向を観察したなら、人類から「体験」が消失する「怖さ」について語るような気がします。そして2006年版『複製技術時代における芸術作品』のタイトルは『情報検索時代における体験』とでもなるでしょう。