9月17日に『横浜逍遥亭』の中山さんのHASHI[橋村奉臣]展への心の打たれ方に心を打たれた私が未だ見ぬHASHI[橋村奉臣]展に対する無謀な直観を書きしるしてから、橋村さんご本人からの強いお誘いを受けるに及んで、昨日10月28日(土曜日)実際にHASHI[橋村奉臣]展を訪れるまでの1ヶ月半の間、私は私なりの「予習」を必死になってやっていた。今の私に言葉にできることは全部言葉にして吐き出して、いわば「丸腰、素手」でHASHI[橋村奉臣]展に乗り込みたかった。そこでその時間に「感受できる」ことに賭けたかった。それが途方もない「プレゼント」として私の前に突然現れたHASHI[橋村奉臣]への「仁義」だとも感じていた。
写真撮影上の技術的な舞台裏の「からくり」にはあまり興味はなかった。それを知ることは写真を見るという体験の本質とは関係ないさえと確信していた。それなしで表現できるにこしたことはないからである。私はダイレクトに「表現」に触れたかった。そこに「写っているもの」を見たかった。
そして昨日とうとうHASHI[橋村奉臣]展を直に体験することができた。私はHASHI[橋村奉臣]展を見たと言えるだろうか。今日HASHI[橋村奉臣]展最終日、私は中山さんと再び訪れた。私は実は自分の身に起っていることの意味を捉え切っていなかった。ある意味で私は自分を見くびり、結果的に橋村さんをも見くびることになる失態を演じた。3時からのトークショー開始に間に合わなかったのだ。昨日は飛行機の遅れでトークショーに間に合わなかった。しかし、橋村さんは遅刻した私を大勢のお客さんに紹介までしてくださったのだった。常識的に恐れ多いという気持ちしか抱いていなかった。まだ橋村さんの"pure"をきちんと受け止められなかった。それは今日になってもそうだった。私はどこかで「身に余る光栄」を身に余していた。
最後の挨拶の時に、私はすべてを悟った。"after the fire"「後の祭り」という作品もあったことが脳裏を掠めた。しかし、どんなことも、必ず"Beginninngs"「始まり」であることも学んだ。私は未だHASHI[橋村奉臣]展を見たとはいえない心境である。二日では足りなかった。それでも、書けそうなことを書いておきたい。
HASHI[橋村奉臣]展は『一瞬の永遠』と『未来の原風景』の二部構成である。
まず、展示室だけでなく、東京都写真美術館三階全体がHASHIさんの「人生」の舞台であることに私は深い感銘を受けた。言葉にできないことが多すぎる。作品のひとつひとつが、HASHIさんの「人生」の記念碑のように感じられた。『一瞬の永遠』では瞬間に結実したチームワークの魂の、『未来の原風景』ではHASHIさん自身にとっても無意識なのかもしれない厚みのある時間の向こうに微かに見える風景の。
三つのコーナーに仕切られた明るい部屋『一瞬の永遠』では、すべての写真になんとも言いがたい「複雑な解放感」とでもいうべき質を感じた。そして写真自身が「喜んでいる」のが強く感じられた。もちろん、すべての写真は作家個人のユニークなひらめきやイマジネーションがきっかけであり、土台であることは否めない。しかし、それだけでは全然ない。別々の場所から発揮された力がその一瞬に結晶化したような、しかもその瞬間の強烈な喜び、快感がほとばしっているような印象を受けた。「十万分の一秒」は過酷な現実を意味し、そうであるが故に実現される「共同」は、「永遠」につづいてほしい「喜び」であることが表現されていると感じた。一見単純にさえ見える映像に奇跡的なコラボレーションが写っていると感じた。
四つの暗い部屋からなる空間『未来の原風景』には、全く異質な空気が漂っていた。時間が流れていた。でも、それは以前予習的に書いてしまったような小賢しい時間論でとらえられるような種類の時間ではなかった。複雑というより、何重にもヴェールがかかっているような印象がまずあった。HASHIGRAPHYという技法の詳細は知らないが、写真の上に何かが描かれている。私は半ば無意識にそれらを「文字」のように感じていたようで、気がついたら、59枚の作品すべてのタイトル、撮影年月日、HASHIGRAPHY年月日、被写体の製作、建造年代を薄暗い中で必死に手帳にメモしていた。HASHIGRAPHYというある種の「文字」と感じたものをなんとか解読しようとしていたのかもしれない。でも「解読」なんて出来る訳がない。ただ感じた。HASHIGRAPHYとはもしかしたらHASHIさん自身にも解読できないHASHI文字、HASHI語なのではないか。それが何重なのか、厚いのか、とにかくヴェールのように古代から現代にいたるヨーロッパの記憶が刻まれたような様々な被写体の写真を覆っている。そんなGRAPHYを施さざるをない「心の深い悲しみ」を私はなぜか感じた。橋村さんの心が流した黒い血で描かれた文字のような気がした。いろんな連想も生まれた。でも、それらを書く時は来ないような気もする。
閉展後、贈呈していただいた二冊の写真集、立松和平著『十万分の一秒の永遠』、そしてポスターに、筆でサインしてくださる橋村さんの横で、私はその全身が日本刀のような存在が一気呵成に筆を動かす鬼気迫る姿を目の当たりにしながら、そこにHASHIGRAPHYの神髄をも垣間みた気がしていた。
私は昨日まで、敢えて写真集も立松和平さんの本も、知らずに、とにかくダイレクトにHASHIさん自身とHASHIさんの作品たちに触れた。永見昌克さんデザインのHASHI[橋村奉臣]展公式サイト上の小さな画像だけを頼りに、「予習」したのだった。そのすべては間違いではなかったような気がしたが、そのすべてを解消してしまう圧倒的なリアリティを体験した。そしてそれは『一瞬の永遠』と『未来の原風景』という二種類の作品群につけられた麗しい印象的なタイトルに籠められたであろうメッセージをどこかで裏切るものだったような気がしている。
昨晩投宿した渋谷のホテルで、そして今日の帰りの飛行機の中で立松和平著『十万分の一秒の永遠』を読み進めた。そこには橋村さんの人生が書かれていた。それに心打たれる面はある。しかし、そこに書かれていることでは済まないことが写真にはやはり写っているのだと改めて思った。写真はおそらく橋村さんの意図を超えて私の心を打った。もちろん、誰がどう語ろうと、私が何を書こうと、橋村さんは笑って面白がるだろうが。