ブログの縁、そして中山さんの尽力と橋村さんの情熱に支えられ、私は28日午後、まず中山さんにお会いし、次いで美崎さん、rairakkuさんにお会いし、HASHI展会場のトークショーの最後に橋村さんとお会いし、展示室内でmmpoloさんいお会いし、最後にfuzzyさんにお会いした。さすがfuzzyさんは、その時すでにこのブログへ「実況中継」していた。後でそれを知った私はのけぞった。
恵比寿のVACANZAに入る直前のある一瞬。MisakiさんとHashiさん。
午後6時、HASHI展終了後、中山さんが前もってチョイスしておいてくださった、気の置けない素敵なお店、PIZZERIA NAPOLETANA VACANZAで、橋村さんを囲んで、私たちは11時くらいまで、「本当に」、これが初対面とはだれも想像できないような親密さのなかで、誰も想像できないような規格外、想定外の、途方もない宴を張ったのだった。途中からHASHIさんのベストパートナー良子夫人も飛び入りされ、また永見さんも顔を出され、時間は何重にも渦巻いた気がしていた。とにかく、楽しかった。
HASHI展の第1部『一瞬の永遠』の代表作の一つ「喜び」がオリジナルタイトルでは、"cheers"(「かっさい」、「乾杯」、「激励」)であり、しかも「複数形」であることの意味を、私はあの宴で始めてお会いする方々と共に過ごした時間に、重ね合わさずにはいられない。
一日目の恵比寿の夜はそうやって更けていった。私はデジタルカメラを持参はしていたが、ほとんど写真は撮らなかった。そして前エントリーで書いたように、私は私の身に起っていることの意味を把握し切れていなかった。
HASHI展行きを決断させたのは、HASHIさんの「呼ぶ声」だった。しかしそれは聞いたこともない種類の呼び声だったので、私は戸惑った。しかし、何かを感じた私はその呼び声に応えた。そして、その「何か」はブログの縁にも自然と広がり重なって行った。正直な所、信じられない、不思議でしょうがない、自分でも持て余し気味の感情を抱き続けていた。
中山さんがHASHIさんから焼き付けられた"pure"の本当の意味を、私は実際にお会いして始めて悟った。以前自分なりにかなり深く想像して書いたことは間違っていなかったが、やはり実際にはもっとずっと深かった。浮かんだイメージは「傷だらけの鋼(はがね)」だった。「血の色」も見えるような気がした。こればかりは、会わないことには見えて来ないイメージだったと思う。実際に見なくても、会わなくても、すべては見えるかもしれない、などと傲慢にも思っていた節のあった自分を私は深く恥じた。しかも、事は写真家個人の観念や技術の問題ではすまない広がりと深さをもった、やはり「現実」すべてであり、「人生」の根っこから全体にまでわたるすべてだった。当然そこには、生身の他人がいっぱい関わってくる。しかし、事はただ単に現実的なのではなく、どうやって、皆がお互いに力を寄せ合って、"cheers"の舞台を創造することができるか、という理想が、それこそ一瞬、一瞬に賭けられているのだということを私は痛感した。
29日(日曜日)早朝、渋谷のホテルで朝目覚めた私はカメラを持って外に出た。雨に濡れた舗道に、広告のちらしやはがきがへばりついてた。その内の一枚に思わずシャッターを切った。自分の眼がすこし変化しているように感じた。
札幌に戻り、疲労と余韻の中で、私は前エントリーをとにかく書きたかった。全然「書けていない」とは感じていたが、ちょっとは書けた気がしていた。一夜明けて、風太郎との朝の散歩で、驚くべき変化が生じていることに気付いた。見るもの、見えるものが、また一段と変化したのである。紅葉はさらに深まり、色弱の眼にも、「紅」の鮮やかさが少しは感じられるほどだ。
しかし、私の目に留まり出したのは、壊れかけたものや、汚れたものや、捨てられたものだった。一番びっくりしたのは、それが捨てられてあることではなく、それを撮影したい自分がいることだった。HASHIさんの「眼」を少しいただいてきたのかな、と苦笑した。
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fuzzyさんがクールでスマートなHASHI[橋村奉臣]展ガイドを書いてくれていた。
2006-10-28「HASHI[橋村奉臣]展」