音の景観(サウンドスケープ)

日曜日に札幌近郊の山間に入った。新興住宅地が途切れ、少しずつ住宅はまばらになり、公道の終点、そこから先は山裾の一軒に通じる私道しかなかった。公道は山々に向かって右方向に折れ、沢を超えて、隣の新興住宅地に、細い公道で繋がっているようだった。ようだった、というのはカーナビの画面では道は途切れていたから。でも今までの経験から、カーナビに映らない道が多々あることを知っていたので、そのまま道なりにゆっくり走った。沢の底に小川が流れていた。小さなコンクリート製の橋がかかっていた。橋の手前で車を停めて、写真を撮った。短いビデオも撮った。昨日アップしたやつ。小川の様子と、特にせせらぎの音を録りたかった。水の流れる音が持つ独特の「質」は、美崎薫さんが書いてくれたように、ひとつの謎だ。海の波音と同様に、いつまでも聴いていたくなる種類の音だ。

そんな貴重な音の景観(サウンドスケープ)が残っている土地は、しかしながら、景観(ランドスケープ)としては無惨な姿を晒していた。その山間に生活する人の数はそんなに多くないにも関わらず、廃車をはじめとする廃棄物が散在し、樹々は無闇に伐採され、植物たちが奏でる生命の多色のシンフォニーに、とんでもなく耳障りなノイズというか、騒音を発している場所が多かった。思わず目を背けずにはいられないような。さすがに、そういう場所を避けてシャッターを切った。自然への配慮に全く欠けた精神が作るものは、自らをも侵蝕していく。いつから人間は、日本人は醜い物を大量に作るようになってしまったのだろうか、と思い始めていた。祖母がよく使っていた「罰(バチ)が当たる」という言葉が浮かんだ。すでに当っているのに気づいていないだけか。

ある日、地球の全人類が滅亡する。それから10年後、すべての都市が植物で覆われてしまっている。この家のように。それはそれで潔くていいのじゃないだろうか。
(中略)
だから人類によって地球環境が破壊されても、きっと新しい環境条件を好む生物が誕生するに違いない。すべて世はこともなし。
「植物の世界」(『mmpoloの日記』)

地球上の先住民としての植物たちに対する過剰な思い入れは、たしかに思考停止に陥る原因になるかもしれないが、しかし、同じ滅亡するのでも、もっとましな滅亡の仕方があると私は思う。個人にとっての「死」の問題と、人類にとっての「滅亡」の問題は位相こそ違え同型の問題のような気がする。

途方もない絶望感の中で、祖末でも木造の家を見るとホッとする。