不知火海の打瀬船

あれよあれよという間の展開だった。2009年7月8日午前、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の最終解決に関する特別措置法」が成立した。大きな争点になっていた政府与党案のチッソ分社化に反対していた民主党が急速に歩み寄る形で合意し、急転回の成立となった。

先月、自身水俣病患者でありながら、認定申請を取り下げてまで、「水俣病という問題」と闘ってきた緒方正人さんの「原罪」の思想について書いた。

原罪の思想:緒方正人の闘い(2009年06月19日)

「被害者」でありながら、「加害者」の立場にも立って考え抜き、「チッソは私であった」とまで表明した緒方さんは、今回の法律成立過程をどんな気持ちで眺めていただろうか、と思わずにいられなかった。




 チッソは私であった


遅ればせながら、緒方正人さんの主著『チッソは私であった』(葦書房、2001年)を読んだ。表紙カバー表に使われた写真(毎日新聞社提供)の不知火海に浮ぶ三艘の打瀬船(うたせぶね)の美しさに息をのんだ。こんな打瀬船は初めて見た。風を孕んだ大小計九つもの帆が細長い船体を包み込んで宙に浮かせてしまいそうな気配だ。なぜか哀しくなるような美しさだと感じた。その理由が緒方さんの説明で分かった。

打瀬船はエンジンを搭載していない、”今時”風の力と潮の力だけで航行する消滅の一途をたどるエコロジーの見本のような船なのだ(112頁)。打瀬船の衰退、そして不知火海という名前の由来である「不知火」(しらぬい)という一種の狐火、妖火も見られなくなりつつあること(6頁)など、急速な近代化のなかで失われつつあるもの、すでに失われたもの、それらすべてが「チッソ」、「水俣病」とつながっている。

チッソ水俣病とともに歩んで来た波瀾万丈の生活を振り返りつつ語る緒方さんは、チッソ水俣病をとおして日本社会さらには現代文明の病理にまで視線を届かせる。組織や多数から距離をおき、あくまで「個の責任」において「時代のなかに自分を引きすえて総括」し続けてきた緒方さんにとって、チッソはたんにチッソではなく、水俣病はたんに水俣病ではない。

 今や人間社会の行状はおよそすべてが「チッソ化」し、地球規模に拡大している。自業自得とはいえ人類滅亡の危機のさ中にあって、必死の甦りを願わずにはいられない。(7頁)

水俣病被害者の「救済」と水俣病問題の「最終解決」をめぐる政治の言葉、そして法律の言葉は、疲弊し涸れかけた不知火海で今も漁を続け、真の「救済」と真の「最終解決」の地平に生きる「個人」緒方さんには届かない。


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