ウェブ進化の意味

米国では、ぎょっとするようなタイトルや言葉をがんがん使って、ウェブに関する新しいビジョンの地平をなんとか切り拓こうとする勢いを感じさせる記事や論文が多いのに驚く。「ウェブ進化」、「Web 2.0」が言葉としては少しは定着した観のある日本だが、米国を中心とする英語圏のウェブに関する議論では、すでに「Web 3.0」と連動した「Semantic Web」が話題の中心になっている。セマンティックとは元来セマンティクス(意味論)という言語学系の専門用語であるが、今やそれはほとんど「Intelligence」、AI(人工知能)の意味で使われている。つまり、ウェブがある時期から行き詰まっていた人工知能研究の主戦場に様変わりしたのである。「ウェブの知能(Intelligence)」とか「ウェブ脳」、「地球脳」という表現さえ使われる。

私がいままで検索とは何かについて、記憶や想起、記録と再生の観点などからこだわってきた背景には、そのようなウェブを人間の脳に見立てた研究開発はどうなんだ?という問題意識があった。世界中でしのぎを削る検索エンジンの研究開発は明らかにウェブを脳化しようとする文脈にある。

インターネット上に散在する情報の量は、ウェブ・ページに限っても、80億ページを超える。そんな途方もない情報の宇宙をウェブ・ブラウザを窓に見立てて覗く(browse)。ただし、文字通り漫然と眺める(browse)ことはあり得なく、実際にはさまざまな種類の検索(search)をしているわけである。その検索技術の進歩によって、ウェブ自体が情報量の増大とともに質的にも大きく変化し始めた。それを「ウェブの進化(Evolution)」と呼ぶことが一般化した。実際には「Web 2.0」という言葉のほうが浸透したようだ。

それにしても、インターネット上に誕生した情報宇宙の意味をちゃんと理解する、正確なイメージをつかむことはそれほど簡単ではない。ほとんど理解されていないような気もする。数年以内には世界中の書籍を含め、地球上の人間が原則的に手に入れることのできる全情報にウェブ・ブラウザを介してアクセス可能になると言われている。

これは、新しい「世界」が誕生したことを意味すると私は2004年の秋から考えるようになった。ちょうどアメリカ滞在中だった。パロアルトの自宅アパートで日本から来ていた二人の研究者と雑談していたときだった。一人は人工知能の研究者、もうひとりは自然言語処理の研究者だった。私は立場上哲学者か思想家だった。当時の私は敢えてインターネットから遠ざかろうとしていた。電子メールと特定の情報収集だけの最低限の利用しかしないようにしていた。本当に必要な情報は、生身の体験と読書のなかにあると信じ込もうとしていた。インターネット上には本当に必要な情報はないとさえ思い込もうとしていた。

しかし、彼らは全く違った。インターネットに全く異質なイメージを明確にもっていた。彼らにとってはインターネットこそ、これまで不可能だった研究を可能にする環境であり世界であるようだった。彼らにとってはすでに当たり前の世界観が私にはピンと来なかった。私は本棚からある一冊の哲学書、確か、Alphonso LingisのThe Community of Those Who Have Nothing in Common(帰国後邦訳が出た。アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版))を抜き出して、かなりの自信をもって彼らに語った。この一冊の本の中に、インターネットの全情報に匹敵する情報がある、と。彼らはややポカンとしていた。話は噛み合わなかった。世界観が違う。完全に違う。

彼らが帰った直後から私は「情報?」というはてなにつきまとわれ始めた。情報って何だ?情報量から言えば、一冊の本に定着された目に見える情報の量などは非常に限られている。インターネット上にはテキスト情報に限ってもそれこそ一生かかっても読み切れない量がすでに存在する。私が一冊の本を掲げて、この中に詰まっていると主張したのは「情報」では実はなかった。それはむしろ「世界の意味(づけ)」とでもいうべきものだった。

インターネット上に未曾有の情報世界ないしは情報宇宙が誕生し進化しつつあるというビジョンが成立するとすれば、私が声高に主張した一冊の本という宇宙は、一個の小さな島宇宙に過ぎない。そこに「すべてがある」と思い、主張するのは勝手だが、事実としてはその主張の根拠さえ飲み込んでしまうような巨大宇宙がすでに目の前にある。あるいは、私が一冊の本に見ようとしていた宇宙とは、紙に印刷された文字情報が、本という函を超えて、人類の経験の記録のすべてに見えない糸で蜘蛛の巣(Web)のようにつながっている地平、つまり世界に対する「意味付け」、「解釈」である。

書物をはじめとする旧来のメディアでは隠れていた見えない蜘蛛の巣(Web)のような無尽蔵の関係性としての世界を原理的に見えるようにしてしまい、なおかつそれを意味付ける働き(インテリジェンス)さえ実現しようとする動きがウェブの進化である。それは、私が一冊の本を読むという経験を通して無意識に行っている「世界の意味付け」に相当するグローバルなスケールの精神の働き(intelligence)の実現、まさに、グローバル・ブレインの実現に向かう動きである。

そういう意味では、ウェブは新種のメディアなどではない。ウェブという「世界」が存在してしまったと考えたほうがいいのだと思う。それはその背後に生身の人間が控えてはいるものの、その言わば「分身」ないしは「化身」が住人であるような、あのSecond Lifeがその一面を視覚化しているような世界である。

要するに、ウェブを「世界」と認識して、現実世界と同様にそこでの経験を知的に組織化しなければならない状況にあること、それが「ウェブ進化(論)」という言葉が意味を持つ地平である。ただし、その進化はまだ始まったばかりで、Web 2.0という曖昧な呼称もその初期段階の諸兆候にたいするラベルに過ぎない。すでにあちらこちらで、2007年はWeb 3.0、セマンティック・ウェブがデビューする、等の記事が出始めている。

  • A Web guided by common sense?---Entrepreneurs try to mine intelligence

By John Markoff / The New York Times
Published: November 12, 2006
http://www.iht.com/articles/2006/11/12/technology/web.1112web.php

  • The Third-Generation Web is Coming

by Nova Spivack
Web 3.0, expected to debut in 2007, will be more connected, open, and intelligent, with semantic Web technologies, distributed databases, natural language processing, machine learning, machine reasoning, and autonomous agents.
Published on KurzweilAI.net December 18, 2006.
http://www.kurzweilai.net/meme/frame.html?main=/articles/art0689.html
これは、ウェブの進化について過去から近い将来の展開の予想も含めて手際よくまとめている。

また、Semantic Webに関するつっこんだ議論については、同じNova Spivackによる次の論文が彼の80年代末から始まる研究史も含めて大変興味深い。セマンティック・ウェブという一見軽そうに見える研究開発にはほとんどすべての学問的成果が注ぎ込まれていることが分かる。

http://novaspivack.typepad.com/nova_spivacks_weblog/2006/11/minding_the_pla.html