吉増剛造さんの映画の秘密2



12月22日(金曜日)、「グラヌールの夕べ」で上映された「まいまいず井戸------takeII」も「エッフェル塔(黄昏)」も、programに寄せられた吉増剛造さんの手書きの解説によれば、「一息に7〜8分で収めようとして、撮られています」とある。上映後のコメントでも、何度か「編集はしていません」という言葉が強調気味に語られた。

撮影の後で編集を行うのが普通である。撮影では使えそうなシーンを可能なかぎり撮る。そうして撮られた素材を、様々な制約のなかで「作品」へと落とし込む、いわば解釈、意味付けのプロセスが編集である。しかし、なすべき編集があらかじめすべて見通されていれば、撮影することが同時に編集することでもあるという事態が成立しうる。

もちろん、完全に未解釈の生の撮影素材はありえない。むしろ、どんな映像もいくつもの潜在的な文脈におかれ、行く通りもの解釈を許すだろう。だから、編集とは無数にも感じられる文脈と解釈を、一定の文脈に絞り込むような解釈を施すことだと考えたほうがいい。普通は。

しかし、それはごくありふれた撮影→編集の手垢の付いたプロセスだ。だれもそれを疑おうとしない。そうして作られる映画の真実にはそれなりの限界があるにも関わらず。どんな限界か。人生の記録の真実としての限界である。

吉増剛造さんが挑戦した「映画」は、そのような常套の手順を確信犯的に裏返す。あらかじめ、「対象」は明確に命名されているところから出発する。横田基地近くの羽村市五ノ神神社の「まいまいず井戸」そしてパリの「エッフェル塔」。撮るべき対象があらかじめ「ひとつ」に絞り込まれている。そこに吉増剛造さんの映画のひとつの秘密がある。

というのは、その対象を絞り込むプロセスとは、原映画としての吉増剛造さんのそれまでの人生そのものであるような原編集だと言えるからである。「まいまいず井戸」に、そして「エッフェル塔」に、「一息に7〜8分で」注ぎ込むべき驚くべき文脈と解釈の数々を吉増剛造さんは手にしていたのだ。したがって、そこには私のような素人が撮影する場合におけるように、普通の意味での偶然が入り込む余地はほとんどない。その編集織り込み済みの撮影の結果は、かつてだれも試みたことのない、眼を見張る質を備えた映画だった。

しかも、「エッフェル塔(黄昏)」には奇蹟ようなこれこそ「偶然」の名に値すると思われる瞬間が記録されていた。画面の左上隅に電車が移動するのが小さく写っていたのである。わずか数秒の記録で、上映中に吉増剛造さんがそこを指差さなければだれも気がつかない偶然の記録。ベンヤミンプルーストに言及したときに使った「無意志的想起」(『機(はた)------ともに震える言葉』80頁)。小さな電車を指差す吉増剛造さんは本当に楽しそうだったのが印象的だった。

驚くべき文脈と解釈の数々に関して語る準備はできていないが、それらを統べているように感じられるのは、世界を深いところから救う=掬うような、具体的な優美な動作や仕草をも想起させる、かぎりなく繊細な眼差しである。その眼差しから逃れるものはひとつもないような、鋭敏でもある眼差し。「何も省略しない」普遍的な女、母の眼差し?