unlearn(学びほぐす)

朝日新聞に掲載された、鶴見俊輔さんと徳永進さんの対談が素晴らしい。特に徳永進さんの言うことが素晴らしい。編集の腕もあるだろうが、全部を引用したいくらいだ。私がここ数年断続的に考えてきたというより思い知らされてきてなんとか言葉にできるようになったことを裏付けてくれる言葉に満ちていた。

2006年12月27日(水曜日) 朝日新聞(朝刊)13面 「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」

一年間におよそ百人の死に立ち会い続けて、生を死の側から見据える眼を深く養い続けてきた医師、徳永進さんの言葉には痛快なユーモアさえ感じられる。「死と取引できる」くらいの「あきらめる力」を出せるように「ベルトコンベア」から「はみ出した」生き方ができなけりゃ、と自ら医者の世界のベルトコンベアからはみ出し、ホスピスケアを含めたホンモノの地域医療に人生をかけている徳永さんは言う。

私が医者になったころ、自宅で亡くなる人と病院でなくなる人は半々。今、自宅で亡くなる人は1割程度。自宅か病院かではなく、両方を行き来できる死があっていい。できれば、いざというとき食事できる「国民食堂」も開き、お年寄りが一人で暮らせるまちにして、治療共同体をつくりたい。「その他」は今、はみ出している者が作り出すしかないのでしょう。

本当にそうだと思う。徳永進さんの言葉には「力」とホンモノの「希望」が感じられる。信頼できる。

鶴見俊輔さんは、対談の後考えたことを綴ったコラムの中で徳永進さんのことを次のように評している。

徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい。

「アンラーン(unleran)」とは、鶴見俊輔さんが若い頃、ニューヨークで会ったヘレン・ケラーからまなんだビジョンだった。

戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。私が大学生であることを知ると、

私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった

といった。まなび(ラーン)、後にまなびほぐす(アンラーン)。「アンラーン」ということばは初めて聞いたが、意味は分かった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。

学び(learn)をほぐす(un)、学びほぐす(unlearn)ことの重要性は何度強調しても、強調しすぎることはないだろう。

ところで、徳永進さんは「現場」で起こることすべてに耳を澄ます人のようだ。現場では「矛盾はすべてに起きる」という。だから「正義がどちらにあるか決めつけてはいけない」。ところが、現場では、これこそが正しといわんばかりの知識、マニュアルによって矛盾に満ちたはずのコミュニケーションが画一化し、その結果患者から人間の尊厳を平気で奪うような事態が横行している。

患者、家族は間違わない。間違うのはマニュアルをもつ医療者だ。
(中略)
医療も教育もマニュアルが現場におりてくるときにはそうなっている。現場では、その画一化からはみ出す「その他」が必要なのに。

先の引用でもいわれる「その他」こそ、ヘレン・ケラー鶴見俊輔さんのいう「アンラーン」、もっと言えば、アンラーンし続けることだろう。

「伝える」のではなく、「伝わる」ということがある。

という徳永進さんの言葉には、現場での矛盾に満ちたコミュニケーションからアンラーンし続けている者の限りなく低い視線と澄んだ耳が感じられる。