アルフォンソ・リンギス『信頼』

二年前アメリカ滞在中に何度も読んだAlphonso Lingis "Trust"の邦訳が最近出た。

信頼

信頼

リンギスは、ジョナス・メカスの母国でもあるリトアニアからのアメリカ移民の二世である。前エントリーで紹介したメカスの4本目のフィルムにはブラジルのサンパウロの町角とバーのごくごく一部しか写っていなかったが、それでもワクワクするような町特有の混沌として豊かな空気は伝わってきた。実はメカスのサンパウロの映像を見ながら、リンギスの文章「サンパウロ」を思い出していた。『信頼』の第三部に収められている。アメリカで原書を読んで頭の中に出来上がっていた映像が、翻訳を読んで、見事に再生されるのに驚いていた。岩本正恵さんの翻訳は素晴らしい。

サンパウロ

サンパウロダウンタウンの脇道に、三十歳ぐらいの女がいる。どことなくあだっぽく、潰した段ボール箱に座って戸口にもたれている。女は赤ん坊を、大きな人形を持っている。きみはホテルを出るときに彼女を見る。朝、出かけるときも、夕方、夜になって戻ってくるときも、女はそこにいる。女がきみに目を向けることはなく、広げた手を差しだすこともない。隣の広場の噴水で女が体を洗うのを、きみは一、二度見かける。角のカフェテリアのウェイターが、食事時が終わると皿に食べものを盛ってやってきて、女に渡すのにきみは気づく。女は人形をきつく抱くことはなく、幼い女の子がやるように揺すったりあやしたりすることもない。たいてい、人形は脇に置いたまま、女は通り過ぎる風景をじっと見ている。人形は、本物の赤ん坊のように、女を疲れさせたり、うんざりさせたりすることがよくあるらしい。サンパウロは一年中温暖だ。頭上の固定された日よけが女を雨から守る。余分な服もひと山ある。女はけっして物乞いをしない。彼女は幼い子どもではない。必要なものはすべて持っている。欲しいものはなにもない。ただ、愛するなにかが、愛するだれかが欲しいだけだ。やつれ果て、同情を拒み、与えることを熱望している。

きみはときどき、隣のカフェテリアで食事をする。ウェイターは若く、活力にあふれ、顔にはある種の魅力がある。きっと満足な給料をもらってはいないだろう。住んでいるのはこのあたりではないはずだ。ここに来るには、町を囲んで遠く広がるスラム街のどこかから、毎朝、延々とバスに揺られなければならない。きみの国なら、彼は学生か、なにかの商売の見習いといったところだろう。食事時が終わると、彼は女に食べものの皿を持ってゆき、彼女に目を向けず、声もかけずに手渡す。彼女のなかにあるのが愛されたいという思いではないことを、彼はわかっている。

女は幼いときに学んだにちがいない。迷子の子犬と遊んでいるときに、彼女の華奢な体には、だれかに与えるよろこびが詰まっていることを学んだに違いない。子犬を抱いて、きつすぎないように抱いて、彼女幼い手はやさしさを学んだ。彼女の足や指や顔を甘噛みし、舌で舐める子犬と触れあうことで、彼女は自分の手やくちびるが与える器官であることを、キスされるよろこびを与える器官であることを学んだにちがいない。母親が日中仕事に出かけているあいだ幼い妹の世話を任されて、自分の手や太ももやおなかは、よろこびを与える器官であることを知ったにちがいない。スラムの子ども時代、通りに放りだされた彼女は、自分の必要とするもの、求めるものが、ほんのわずかしかないことを学んだ。十五歳の男に引っかけられ、犯され、置き去りにされ、その後、何人もの男に同じことをされて、女は自分の必要とするもの、求めるものが、ほんのわずかしかないことを学んだ。自分には、だれかに与えられるありあまるやさしさとよろこびがあることを彼女は知った。だが、今となってはそのやさしさとよろこびが、どれほど彼女の心を痛ませていることか!

ある日、彼女は消えた。きみは警察の仕業だと考える。ここは都心だ。この町で海外投資向けの経済界の会合かなにかが開かれて、通りをきれいにするように、ごみのような連中を一掃するように、警察は命じられたのだろうか。国の祝典が------歴史的な行事か、銅像の除幕式かなにかが------あったのだろうか。

けれども数日後、きみはふたたび女を見た。同じ戸口に、同じ人形とともに座っていた。

やがてきみはサンパウロを発った。荷物を持ってホテルをあとにするとき、きみは女を見た。女は今もそこにいる。きみには今もその姿が見える。きみを必要とせず、求めもしなかった彼女は、きみのなかに生を受けた。彼女を必要とせず、欲望を抱かなかったきみは、その人を思い、気づかう対象として彼女を見だした。なにしろきみには、やさしさと鋭い感覚が、ふんだんにまき散らすキスと抱擁が、存分にあるのだから。
(101頁〜103頁)

この、小説の一部のように読める文体が示していることは、リンギスは己の「サンパウロ」体験を二人称(「きみ」)で記録=表現することを通して、深く追体験しているということである。そしてその追体験サンパウロの具体的体験を人間の真実といってもいい普遍的な知識にまで高めることに成功している。だから、感動をもたらす。

私はリンギスを「旅する思想家」とか「旅する哲学者」というキャッチフレーズで賞揚することに違和感を覚えている。また、リンギスが「哲学者」であることを否定しようとする傾向にも疑問を持っている。リンギスのように「旅する」ことが問題ではないし、リンギスはまぎれもなく類い稀な哲学者だと思う。一見読み易いからといって、理解し易いとはかぎらない。翻訳したからといって、理解が十分とは限らない。

他人の旅の経験の記録、travelogueを読んで感動することは、それ自体の意義とは別に、日常の経験を具体的に変えることへと繋げられなければ、それこそ狭義の「知識」に終わってしまいかねない。リンギスの旅の経験の記録の仕方から、私は私の日常を本質的な「旅」として記録、記憶しながら生きることを学ばなければ、リンギスを読むことの意義は半減してしまうと思っている。リンギスの本が哲学の書棚に置かれようがどこに置かれようが、そんなことはどうでもいいことである。

先日ある大型書店で、小林秀雄賞を受賞した茂木健一郎さんの『脳と仮想』を評論や思想や文芸の棚を探しまわったあげく見つけられず、店員に尋ねたら、なんと「医学・看護」の棚に置かれていて、魂消た。タイトルにある「脳」だけからその棚に振り分けられたわけである。「本棚」は自分で作ればいいのである。

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『信頼』の「訳者あとがき」で岩本さんも紹介していますが、

  • アルフォンソ・リンギスの素顔とインタビューはこちらで。

Mortal Thoughts :
Philosopher Alphonso Lingis Brings the Real World to the Ivory Tower
http://www.citypaper.com/news/story.asp?id=8556

  • アルフォンソ・リンギスの声はこちらで。

Unintelligible Lines, Unknown Paths
Alphonso Lingis
Other Voices, v.2, n.3 (January 2005)
http://www.othervoices.org/2.3/alingis/index.html