信頼

昨日ちょっとだけ紹介したアルフォンソ・リンギスは、私が知ったつもりになっていた世界に非常に思いがけないリンクをたくさん張っていて注目するようになった。例えば、昨日一部引用した『信頼』では、私が分かり切っていると高を括っていた「信頼」について、「勇気」だけならまだしも、「笑い」、「性的渇望」、「性的魅惑」、「エロス」までをも説得力豊かに結びつける。それは言われてみれば、「なるほど」だが、それを初めて言うには、「信頼」が常識的に形作る意味の網の目を食い破る経験とそれを凝視する眼と緻密に寄り添う思考が必要だ。それは「信頼」に関する思想というより、結果的に「信頼」の通念をそれと連動する他の通念ともども全般的に書き換えることになる体験の記述が必然的にもたらしたものだと思う。つまりは、人生、世界、言語という全体の構図を根本的に書き換えるような体験の質とその記録法、表現法、文体が問題なのだと思う。

ひとたびだれかを信頼する決心をすると、魂に浮かぶのは静けさだけではない。そこには興奮と浮きたつ気分がある。信頼は、他の生きものとのもっともよろこばしい絆だ。だが、だれかとともにいることを楽しむとき、そこには危険性の要因があり、同時に信頼の要因があって、それが恍惚ぎりぎりの快楽を与えるのではないだろうか。(12頁)

勇気と信頼には共通点がある。それは、どちらもイメージや表象に関連した態度ではないことだ。勇気という力は、計画や期待や希望が消失するときに発生し、不動のものとなる。勇気は、沸きあがり、確固たるものとなり、ひとりでに大きくなる。信頼という力は、死が抱く動機と同じように、その動機を知りえないだれかに対して湧きあがり、しがみつく。知らない相手を信頼するには勇気が必要だ。信頼には浮きたつ気分があり、それはひとりでに増大する。この浮きたつ気分のなかにある信頼と勇気の力を分けることはできない。(13頁)

笑いと性的な渇望がイメージと表象とものごとの分類を突き破り、他に類のない現実のできごとと接触するとき、それらは勇気や信頼と共通点を持つ。実際、信頼のなかに勇気があるように、信頼のなかにはよろこびと恍惚もある。信頼は危険を笑う。性的な魅惑も信頼と非常によく似ている。転がるようにセックスに溺れるのは、無条件の信頼に飛びこむのと同じだ。逆に、信頼にはエロティックななにかがある。なぜなら、信頼とは、意志をむきだしで突き出して、相手の知りえない核にしがみつくことではないからだ。信頼は、相手の感覚と諸力にしがみつく。スカイダイバーが、相棒のパラシュートを持ってあとを追って降下するときの信頼には、どこかエロティックなものがある。ジャングルで道に迷った人間が、現地の若者に寄せる信頼も同じだ。信頼は勇気にあふれ、直情的で、欲情に満ちている。(15頁)

このような信頼観は、でも、ブログをやっている人にはなじみ深いものに違いない。私はひとつのエントリーを誰に届くか分からないまま投ずるたびに、リンギスのいう「信頼」の層に触れていると感じる。