おとぎ話three fairy tales:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、30日目。


Day 30: Jonas Mekas

Tuesday Jan. 30, 2007 8 min. 30 sec.

Tired of reality, I
tell three fairy tales
to the accompaniment
of the Himalayas
at Zebulon music
bar
.

ままならぬ浮き世に疲れたので、
おとぎ話を三つほど
「ヒマラヤズ」の伴奏に合わせて
ミュージック・バー「ゼブロン」で。

場所はこの365日映画初日にメカスが「ペトラルカ!、ペトラルカ!」と切なく激しい調子で連呼しつつ開始宣言を告げたのと同じ場所、ブルックリンのミュージック・バー、「ゼブロン(Zebulon)」。("zebulon"はUrban Dictionaryによれば、「マイケル・ジャクソンのようにめいっぱい整形手術をうけた住人ばかりの惑星」の意味)。「ヒマラヤズ(the Himalayas)」はすでに二度登場したパーカッショニストのダリウス・ナウージョ(Dalius Naujo)を中心とするバンド。

幼少の頃から現在にいたる17枚のポートレート、深く渦巻く雲から覗く青空、イスラエル軍がブルドーザでガザの民家をなぎ倒した事件の報道写真をそれぞれ背景にして、メカスは三つの「おとぎ話」を語る。道の終わりには何があるか知りたがった男、道の終わりには何もなかった、という話。「終わり(the end)」は「目的(the end)」をも意味する。事をなすべきかなさざるべきか考え続けているうちに死んだ男の話。自分の住む家をとても愛しているパレスチナ人の「私」のところに、ある日イスラエル人がやってきて家を売ってくれないかと尋ねた。「私」は愛している家を売る事は出来ないと断った。イスラエル人は「分かった」と言って立ち去った。(その後…。)

昔の自分が写っている写真を見ることは、不思議な体験だと思う。例えば、中学校の修学旅行のときの写真。そこには15歳の自分が写っている。今の私はあの頃の私から見ればどう見えるだろうかと思う。今の私はあの頃の幼い私のことはすべて分かる、お見通しのように考えがちだが、本当にそうだろうか。あの頃の私は、今の私が見失っている多くの「目的」を見ていたような気がする。振り返ると一本道に感じられる人生だが、あの頃の私にはそんな「道」は見えなかった。もっともっとたくさんの道を見ていたはずだ。そのたくさんの道はどこでどう途切れてしまったのか。

三つ目のおとぎ話で「私」は思い出(memories)」の詰まった家を売るわけにはいかない、と言う。家という箱は人間にとって忘れている多くのことを思い出させてくれる一種の記憶想起装置である。その意味では、すべての家は「記憶する住宅」である。それにしても、記憶とは、非常に不思議なものだ。思い出されて初めて記憶は記憶として認められる。想起されなければ、その存在は知られない。思い出すことの中でしか生きながらえないようなものが記憶なのだ。日本語の「思い出」は非常に正確な記憶の定義である。「記憶」という言葉のせいで、人間の「思い出」が機械、コンピュータの「記録」と混同される場面が多い。人間の記憶は「思い出(すこと)」であり、ある種の記録ではない。

生きるということは絶えず思い出し続けることのような気がしてきた。メカスの365日映画の試みは単純な「人生の記録LifeLog」、あるいは「再記録」ではない。記録することが同時に思い出すことでもあることを知っている人による「人生そのものの一部」にほかならないのだと思う。当たり前のようだが、実はそうでもない。