受講生の皆さん、こんばんは。
前回は、この講義の前半では、画期的な論理学入門書である野矢茂樹著『入門!論理学』を大いに参考にしながら、論理学を死んだ知識ではなく生きた方法として身につけるぞ、と確認しました。
前回やったことを簡単に振り返っておきますね。『入門!論理学』第1章「あなたは『論理的』ですか?」を参照してください。
大きな流れとしては、「論理的ってどういうことか」の説明から始めて、現代の標準的な論理学(命題論理と述語論理)の道具立て、論理的ボキャブラリーの紹介までやりました。否定語(「でない」)、接続語(「そして」、「または」、「ならば」)、そして量化語(「すべて」、「存在する」)でしたね。しかしまだ専門用語を覚える必要はありません。そのうち嫌でも覚えてしまいますから。むしろ、「論理的ってどういうことか」を「論理的でない」と非難されるときによく言われる、「非論理的だ」、「支離滅裂だ」、「飛躍している」、「矛盾している」等との関係で、日常的な感覚と結びつけて説明できるようにしてくださいね。
先ずは、ざっくり言うなら、「論理的である」とは、「(首尾)一貫している」、「筋が通っている」、「矛盾していない」ような言葉使い、言葉のつながり、言葉の関係の一種ことでしたね。
次に、もう少し正確に言うなら、「言葉」と一口に言っても文のことであり、そして「つながり」や「関係」と言っても常識や経験に頼ったものでははなくて、「意味」の上で絶対確実につながっている、関係している場合のことでした。そう言うと、随分厳しい窮屈な関係だけなのかなと思ってしまうかもしれませんが、確かに半面ではそうなのですが、面白いことに、矛盾さえしていなければ、常識的には現実に不可能なことでも論理的には可能であると認められるのでした。ですから、論理的であることは、時として、非常識な可能性であるわけです。つまり、論理的な可能性は常識的な可能性よりもずっと広い、いわばより自由なわけです。
ここまでを整理すると、論理的であるとは、意味の上で、一つ以上の文(「前提」)と一つの文(「結論」)とが、絶対確実につながっている関係です。これを専門的には、「演繹的推論」、あるいは短く「演繹」または「推論」と呼ぶのでした。これに対して、常識や連想にたよった関係、一見確からしいけど、よく考えると、絶対確実とは言えない文のつながりのことを「推測」と呼ぶことにしました。論理学が扱うのは前者に限られるのでした。
さて、ここで、ちょっと微妙な、でも大事な区別をしておく必要があります。というのも、一見したところ演繹的推論なのに、どこか変だな、明らかに結論がおかしいなという場合が結構あるんです。例えば、「三上は高校教師である。だから、三上は高校生を教えている。」を見てください。「三上」とはこの私のことだと思ってください。どうですか。実際に三上が高校教師であるならば、この推論は絶対確実に正しいと言えますよね。「高校教師」の意味上「高校生を教える」は絶対確実に導き出せますからね。でも事実は三上は高校教師ではありませんから、その結論は誤っていますね。こういうケースをきちんと整理するにはどうしたらいいかということです。
そのためには「推論」と一口に言ってるプロセスを前提となる文の正しさをちゃんと評価することまで含めた場合と、前提が正しいと仮定した上で結論が絶対確実に導かれるところだけの場合とを分ける必要があるのです。前者を「論証」、後者を「導出」と呼びます。こう区別しておけば、導出は正しいが、論証としては誤っている、とすっきり評価できるようになるわけです。(このあたりのことを野矢さんは書いておらず、「推論」、「論証」、「導出」の三者の関係がやや不明でしたから、私が書きました。)
その点を踏まえた上で、前提の正しさをいちいち事実に照らして評価することは、論理学の仕事ではないことを押さえてください。論理学は「導出」の正しさだけを扱います。事実の調査は他の学問に任せるのです。事実の調査によって明らかになるのが知識の中身だとすれば、論理学は知識の中身を入れる器、形式を整えるのが仕事だと言えます。そういう意味で、かつて、アリストテレスという大哲学者は、論理学のことを他の学問のための「道具(オルガノン)」と呼んだのでした。
じゃあ、実際、知識の形式としての論理学の実態はどうなっているのか、ということで、冒頭に書いたような道具立て、論理的ボキャブラリーを使って、形式を整える、専門的には「体系化する」ことになるわけです。
と、ここまでが、前回の復習です。
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今後は、そのような道具立ての一つ一つの意味合いを深く見て行くことになります。形式をただ形式として暗記したって、どうせすぐに忘れてしまいますし、形式に潜む深い意味を見ておけば、忘れたくても忘れられなくなりますから。
というわけで、今回は、論理的ボキャブラリーの筆頭として「否定」の深い意味を見ます。その過程で、現代の標準的な論理学というものが、実は世界のすべてを見通す、見渡すような「神の視点」によるものであり、世界のすべてを見通す、見渡すことなんてできっこない「人間の視点」を超えていることを、その理由と一緒にちゃんと知ってもらいます。つまり、論理学のよって立つ地盤に触れてもらいます。言い替えれば、哲学、形而上学の地平を垣間みることになります。以下のような項目について、解説する予定です。
論理学入門2007 第2回 神の論理 VS. 人間の論理:否定の深い意味
1 日常的な否定の意味と論理学が扱う「否定」の意味
2 否定に関する論理法則
2-1 排中律
2-2 二重否定則
2-3 矛盾律
2-4 背理法