論理学入門2007 第8回 暗黙の「すべて」と自明すぎる「存在する」に光を当てる

前回簡単にアナウンスしたように、今回から2回にわたって、いよいよ現代論理学の「基本」の総仕上げにかかります。前回まで見てきた命題論理よりも一段深いところから、その命題論理も含んだより強力な論理学の体系づくりをみることになります。その体系は述語論理と呼ばれます。命題論理は「文論理」とも呼ばれるように、文という単位で演繹的推論を体系化するものだったわけですが、述語論理とは、「述語」が表しているように、文の大事な成分のひとつである、人や物のあり方を「述べる語」に注目して、演繹的推論の体系を作るものです。「文」の内部にある演繹的推論を支える要(かなめ)になる形、形式を述語というわけです。詳しいことは講義でお話しますが、そのような述語には二つある、しかも二つしかない、というのが結論です。その二つとは、「すべて」と「存在する」です。

ところが、ちょっと厄介なことに、「すべて」も「存在する」も普段の言葉遣いでは目立ちません。例えば、次の卑近な例を見てください。どっちに「すべて」と「存在する」のどっちが含まれているか分かりますか。

A「男って、バカよね」
B「バカな男がいてさ」

答えは、Aに「すべて」が暗黙のうちに含まれています。Bの「いて(いる)」は言われてみれば、確かに「存在する」ということですよね。すなわち、Aは論理学的には「すべての男はバカである」に言い換えられ、Bは「バカな男が(少なくとも一人は必ず)存在する」と言い換えられることになります。

そして、さらに、「バカ」なのは「男」に限らないのが世間ですし、「男」には他の性質もあるわけですから、「男」とか「バカ」の部分は、入れ替え可能です。ということは、「すべての〜は…である」と「…な〜が存在する」という一般的な形式が垣間見えてきますね。

実は、述語論理という難しそうな名前の論理体系の新しい道具立ては、この「すべて」と「存在する」の二つだけなんです。え?と思うかもしれませんが、そうなんです。「新しい」というのは、今までやってきた命題論理の道具立てはすべて使うからです。でも計6つですよね。否定・連言・選言・条件法、そして「すべて」・「存在する」の六つです。

『入門!論理学』の最終章、第6章も「『すべて』と『存在する』の推論」となっていますね。その第6章の内容は、標準的な教科書では、「述語論理」というタイトルがつけられるはずの内容です。

さて、今回は『入門!論理学』でいえば、第6章の前半(pp.193-218)の内容を扱います。

講義の骨子です。

1推論の形式化
1.1全称:かくれた「すべて」を明るみに出す
1.2存在:あまりに自明な「いる、ある」にフォーカスする
2全称と存在のド・モルガンの法則
2.1全称文の否定は否定の存在に等しい。
2.2存在の否定は否定の全称に等しい。
3述語論理はなぜ要請されるか:有限の対象か無限の対象か
3.1連言と選言のド・モルガンの法則
3.2全称と存在のド・モルガンの法則
4述語論理的分析
4.1議論領域と変項
4.2全称量化と存在量化