Family and Solitude:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、6月、157日目。


Day 157: Jonas Mekas
Wednesday June 6th, 2007
7 min. 50 sec.

a memory of
a Cape Cod
summer ---

ケープ・コッド
の夏
の思い出

まだ5、6歳に見える息子のセバスチャン、そして10歳くらいと12歳くらいの女の子、それに30歳代に見える女性が登場する。メカス本人は一度も姿が写らない。声は聞こえる。セバスチャンの「パパ、パパ」という幼い甘えた声が印象的だ。メカスの家庭の事情に関しては、現在30代半ばくらいに見えるセバスチャンという名の息子がいることの他には、確かなことはほとんど知らない。

いつものように、メカスの映像には「説明」は一切ない。映像が「語る」こと以外にどんな言葉による説明が必要だというのか、という姿勢を貫いている。それは百も承知の上で、私は言葉で、調べがつくかぎりの情報、特にネット上の情報を使って説明しようとしてきた。それはメカスの映像に対する無粋な行為、もっと言えば冒涜にあたるのかもしれないが、そのような誹りも覚悟の上で、説明したいという止むに止まれぬ欲求に導かれてきた。

それはメカスの映像の説明というよりは、メカスの映像の私の体験の説明なのだと言い訳しておきたい気持ちがある。言い替えれば、メカスの映像を私はどう見たか、その記録にすぎない、と。

今日のフィルムを見ると、昨日のカプリ島のフィルムはある意味で伏線だったようにも思えてくる。昨日のフィルムには十代前半のセバスチャンと十代後半の娘さんが一人登場した。今日のフィルムは時間をもっと遡り、もう一人の娘さんと奥さんらしき女性も登場する。想像はいくらでもできるが、それを書くことは慎もう。でもとにかく「家族」が主題として演奏される楽曲のようなフィルムだとは言える。

「ケープ・コッドの夏の思い出」はお父さんが撮影したごくありふれた家族の夏休みの数日の映像記録にも見える。もちろん、メカスの「目」がとらえ、編集された映像は独特である。奇を衒った独特ではなく、ごくありふれたものを見る見方が、捉え方が非常に独特なのだ。ありふれたものを手でそっと触れるように撮る。影と光を強く意識している。その場に聞こえる声や音楽に耳を澄ます。恐らく匂いにも。これでもか、というくらいに五感を解放してとらえたありふれた光景と音景とでも言えるだろうか。

子どもたち三人が寝室のベッドの上でトランプをする場面がある。そのベッドの隅っこに置かれたお菓子の箱がクローズアップされた。トリスキット(Triscuit)。それを見れば、ナビスコの全粒粉のビスケットの香りと歯触りと舌触りと味とともに、当時の記憶が鮮明な思い出として蘇るだろう。

幸せそうな、でもどこか物凄く孤独を感じさせる今日のフィルムだった。

***

マサチューセッツ州の南東部端の砂質の、腕のようなケープ・コッド半島。清教徒ピューリタン)の一団(ピルグリム・ファーザーズ)をのせたメイフラワー号が錨を投じ、北米大陸にその足跡を標したケープ・コッド。アメリカ合衆国のルーツのような場所。エマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882)がそこに立って初めて、アメリカ全土を背 にすることができると語った場所。*1