世界の存在論的基底は対象ではなく、あくまで事実であるというのが『論考』の出発点でした。そもそも対象は事後的に切り出されるものでしかなく、しかも不確定なのでした。一方、われわれが事実の総体としてのこの現実の世界に埋没したままではないのは、言語があるからでした。世界の「像」としての言語の中で可能な事態を意味のある命題、名の配列として構成できるからでした。つまりは、言語によって事実を超えた可能性に到達できる。実際に事実を超えた可能性は言語のなかで事態として命題によって表現されるしかないわけです。
世界の現実は事実の総体によって構成されるが、世界の可能性は有意味な命題の総体によって規定される。後者を「論理空間」と呼ぶ。そして有意味な命題を構成する「名」の配列、結合の可能性の総体を「論理形式」と呼ぶ。論理形式に反した名の配列、結合は無意味かナンセンスである。ちなみに、この見方は、無意味あるいはナンセンスという「意味」を私たちがある種の言語使用において体験することを否定するものではありません。
さて、世界の可能性、言語および思考の可能性の限界を見極める作業は、「名」の(論理形式の)解明に進みます。そこで「名とは何か」を巡る数学をも巻き込んだ哲学、論理学上の歴史的事件を概観することになったのでした。名(概念)を命題関数(述語)と捉えることによって論理学を革新し、数学の論理的な基礎付けを完成したかに見えたフレーゲの仕事に、致命的な欠陥(パラドクス)を発見したラッセルは、それを解決するためにある手続き(タイプ理論)を発明しました。ところが、ウィトゲンシュタインはフレーゲの命題関数の考えをさらに言語的、名的に徹底することによって、ラッセルのパラドクスをあっさりと解消する地平に到達したのでした。それは関数という名の論理形式を見極めることを通してでした。
今回はそんなウィトゲンシュタインの鮮やかなお手並みを拝見しつつ、何の変哲もないようにみえる「名」、ごく自然に見える私たちの「命名」行為に潜む言語哲学的深みを垣間見ることになります。
講義項目:
1フレーゲの命題関数の考え方
2ラッセルのパラドクスとタイプ理論
3名の論理形式の解明
4ウィトゲンシュタインの関数の考え方