これまで『論考』の理論的中心の基本的構図を見てきました。前回はその根本的な思想に関わる「無限」を操作の反復としてとらえる考え方にも触れました。さて、今回からは、これまでの理論的考察から必然的に導かれるいくつかの主張を検討することになります。それらは一言で言って、「世界観」に関わる主題群です。そしてそもそもウィトゲンシュタインが『論考』で企てた計画の「限界」を見通す地点に少しずつ近づくことになります。今回は、まず『論考』の中でもやや唐突な議論に感じられなくもない、「私の言語」という表現から始まるウィトゲンシュタイン独自の「独我論」に関する議論(下の5.6から5.621)をいままで見てきた理論的構図に照らし合わせて検討する予定です。
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界である。
それゆえわれわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
5.62 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
5.621 世界と生とはひとつである。
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