言語哲学入門2007 第11回 私とは何か

さて、前回概観した『論考』の「独我論」は、「世界は私の世界である」(5.62)というテーゼに要約されるものでした。今回見るのは、そこからさらに一歩進んで「私は私の世界である」(5.63)というテーゼに要約される一種の「実在論」の内容です。両者は見かけは似ていますが、全く別物の主張です。後者は要するに、「私」は世界の中に存在する対象ではなく、「(私の)世界」そのものであるという主張です。世界の中に「私」は存在しない、というわけです。では、「私」はどこにどのようにあるのか。ここで、「私」はどこかになんらかの仕方で「在る」ような何かではない、ということは、今まで追ってきた議論からだいたい想像できることと思います。

そういうわけで、今回は以下の5.63〜5.64節で語られる独特の世界観でもあり同時に自我観でもある「実在論」の内容と限界を検討します。

5.63 私は私の世界である。
5.631 思考し表象する主体は存在しない。
 「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
5.633 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
 君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実には眼を見ることはない。
 そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。

講義項目:

1動作主体としての私
2思考主体としての私
3命題態度の問題
実在論
5「われわれ」と他者性