ナポリ下町の代書屋マリオの人生

昨日の夕方、NHKのBS1でイタリアのナポリの下町で長年「代書屋」をやっているマリオに取材したドキュメンタリー番組を見た。製作はNHKエンタープライズ。ここはいいドキュメンタリー番組を作る。とてもしみじみとしたいい気持ちになった。いい人生だなあと素直に思えた。マリオは幾つくらいだろう。70歳くらいだろうか。生計は年金で立てている。代書屋としての収入は微々たるもので、ほとんどボランティアに近い。独身である。一日数杯のエスプレッソとダンスをこよなく愛す。

今の日本には行政書士司法書士は存在するが、マリオのような「独立よろず系」の代書屋は存在しないだろう。イタリアのナポリの下町でさえ、マリオは「最後の代書屋」と言われる。映画の好きな人なら、ウォルター・サレス監督『セントラル・ステーション』(Central do Brasil, 1998)というブラジル映画に登場する中年女性のドーラがリオの中央駅前で同じような代書屋をやっていたことを思い出すかもしれない。文字が書けない、読めない人が多かった時代や地域で必要とされた仕事だった。今でもナポリの下町にはそういう高齢の人たちがいっぱいいて、マリオに助けを求めに来るのだった。みんな貧しい人たちばかりだ。役所に提出する年金支払い申請書の代筆から、刑務所に入っている息子への手紙の代筆まで、マリオはお客さんと対話しながら、彼らの代わりに文字を書く。代金は書類一枚が50セント、二枚以上でも1ユーロから高くて1.5ユーロ。みんな貧乏だからね、という。

毎朝、彼は下町にある市役所の裏口近くの歩道の決まった場所に「青空事務所」と称した店を開く。イタリアとヨーロッパ共同体の小さな旗を花壇の隅っこに立てる。「国を愛しているんだ」と言う。そして折りたたみ式の小さな机と椅子を組み立てる。ぼろぼろになった百科事典を机の左隅に置く。「文化を愛しているんだ」という。

青空事務所は午後1時に閉まる。市役所の窓口が閉まるのと同じ時間。郊外の自宅、市営住宅の一室に戻った彼は昼食後のエスプレッソを入れ、美味しそうに味わった後、ちょっとめかしこむ。ダンスに出かけるのだという。若い女性たちと踊るのが楽しみなのだ。ダンス教室には、彼よりは若い50代、60代くらいの女性がたくさんいて、マリオに話しかけてきて、踊りに誘う女性も少なくないようだ。マリオは相手を変えてはダンスを楽しむ。「ダンスは生きる喜びなんだ」のような内容のことを言う。

マリオは自宅で近所の不登校になった女の子に勉強を教えたりもしている。その母親はよくマリオの分まで作った料理を持ってきてくれるらしい。今日は瓶詰めのナスのオイル漬けだった。瓶詰めを受け取り、見つめるマリオの嬉しそうな表情が印象的だった。

若い頃、持病の喘息が原因でそれまでの電器屋の職を失い、10年間何もできない時期を過ごしたという。そして元手がなくとも出来る仕事は何かないかと探した末に見出したのが、すでに歴史の一ページになっていた「代書屋」という職業だった。しかし、彼が生きる社会の現実は未だに代書屋を必要としていた。特にナポリの下町にはイタリア国外からの貧しい移民も多く、読み書きが出来ない人も多いという。マリオは代書屋としての誇りについて「社会は私を必要としている」と言う。

以上、うろ覚えで書いたので、細部では事実誤認があるかもしれない。NHKオンラインの番組紹介ページがある。

この番組を見ながら、マリオの生き方に惹かれる自分がいることに気づいていた。独立系のよろず寺子屋みたいなビジョンが自分のなかにあることにも気づいた。