「死者たちの集い」という名の広場で


マラケシュの声―ある旅のあとの断想


エリアス・カネッティElias Canetti, 1905–1994)によるモロッコの古都マラケシュ紀行『マラケシュの声』(岩田行一訳、法政大学出版局、1973年)に「ジァーミア・ル・ファナー」という興味深い名前の広場が出てくる。

ジァーミア・ル・ファナー(町の中央にある広場で、出店、大道芸人が集まり、一日中人で賑わう。「死者たちの集い」の意)(90頁)

 夜、町中の路地をそぞろ歩くときには、帰りにかならずジァーミア・ル・ファナーへ寄ることにした。もうほとんど人影もない広場を通るのは奇妙なものであった。もう曲芸師もダンサーもいなかったし、蛇使いも火を食う手品師もいなかった。侏儒(こびと)がひとりぽつねんと地面にうずくまっていた。その前にひどく小粒な卵の入った籠が置いてあった。かれの周囲一帯には何もなかった。アセチレン灯があちこちにともり、広場にはその匂いが漂っていた。雑炊屋の屋台には、まだ男の姿がちらほらし、雑炊をゆっくり啜っていた。かれらはどこへ行くあてもないといった風情で、侘しげに見えた。広場の隅々で、人びとが眠りについていた。横になっている者もいたが、たいていはうずくまっていて、みんなマントのついた頭巾をかぶっていた。かれらは身じろぎもせず眠っていたから、その黒い頭巾つきのマントの下に息をしている者がいようとは、誰にも想像できなかったろう。(138頁)


ある晩、カネッティはその広場で、一種の見世物とは分かっていても、まともに見ていられないほど、余りに酷い扱いを受け続け今にも死にそうな老いぼれた驢馬を見かけ大きな衝撃を受けるが、どうすることもできずに、悶々としながら帰路についた。カネッティは、その驢馬が今夜じゅうに昇天し、苦しみから解放されることを願って、なんとか気を鎮めるしかなかった。しかし、その驢馬のことが気がかりで、翌朝早くに再びジァーミアへ行く。

 翌日は土曜日で、朝早くからさっそくジァーミアへ行った。ジァーミアが週のうちでもっとも人出で賑わう土曜日であった。見物人、大道芸人、籠、屋台がひしめき、人ごみを押しわけて進むのに難儀した。わたしは昨夜あの驢馬が立っていた場所にきた。一瞥して、わが目を疑った。(140頁)


その驢馬はカネッティの想像を超えて、ちゃんと生きていたのである。しかも「悦楽」さえ見出して。「ナポリの馬(ニーチェの馬)」をどこか連想させるような「驢馬の悦楽」と題した章の話である。しかし個人的に興味深いのは、驢馬の逸話そのものよりも、その舞台、背景となる広場の様子と、そこに集まる人間たちの描写である。本書(原書)が出たのは1968年である。カネッティのマラケシュ滞在から半世紀近く経った現在、ジァーミア・ル・ファナーで、曲芸師、ダンサー、蛇使い、火を食う手品師などの大道芸人や、吟遊詩人のような「語り手たち」(119頁)や、代書屋のような「書き手たち」(122頁)、そして各種の見世物などにはもう出会えないだろうと思うと、「死者たちの集い」という名がより一層印象的である。


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