マリオ・ジャコメッリの「静物 06」と「人生 13」

Nature Morte 06(Mario Giacomelli Official Web Site)


辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』(NHK出版、2009年、asin:414081375X)では、モノクロームに格別の思い入れのある辺見庸がジャコメッリのモノクローム写真の白黒世界の意義を深く掘り下げている。

ジャコメッリは西暦二〇〇〇年に七十五歳で死んだ。デジタルカメラが登場し、モノクロームフィルムがカメラ屋の店頭からはほとんど姿を消し、世界が色で溢れかえる時代まで彼は生きたが、しかし最後まで色をつかうことはなかった。実験的に試みたことすらあったかどうか。かくも色の氾濫する時代になって、かれは頑固なまでにモノクロームにこだわり、白と黒の世界に「時間と死」を閉じこめつづけ、そうすることで「時間と死」を想像し思考する自由をたもちつづけた。「時間と死」はジャコメッリにより息づいたのである。

 17頁

しかしながら、上のように、公式ウェブサイトに掲載された「静物06」はカラー写真である。全344枚の写真の中で、カラー写真はこの一枚だけである。「静物06」だけが別の空気のなかにあるような印象を受ける。ジャコメッリは特異なモノクロームの写真家として知られるが、カラー写真をまったく撮らなかったとは考えにくいし、現に「静物06」が公開されている。その存在は、彼のモノクローム写真一辺倒に思われる白黒世界に穿たれた穴のように見えてくる。その穴はどこに繋がっているのだろうと考えていた。

La Mia Vita Intera 13(Mario Giacomelli Official Web Site)

例えば、私は以前からこの「人生 13」が非常に気になっていた。こちらに背を向けた人物(ジャコメッリ?)があちら側に何をどう見ているのかと問いかけてくるような写真だ。この写真にはもちろんジャコメッリ独特の見る人を不安に陥れるような要素が散りばめられている。特に、一見椅子に腰掛けているように見える人物のありえない不安定な「腰掛け方」に注目してもらいたい。お尻が完全にはみ出している。こんな風に腰を下ろすことは不可能に近い。その不自然、超自然的な腰掛け方は、ジョークのように思えたり、合成写真であることを疑わせさえする。それは写真という「嘘」を曝け出し、さらに、写真を見るという行為それ自体をからかっているようにさえ感じさせる。

そもそも写真に写るものは生身の人間が見る世界ではない。それが写真の魅力でもあり陥穽でもある。色覚だけでなく、知覚全般を人は決して共有することはできない。あるいは共有できるということは意味をなさない。ある人に世界がどんな色でどんな風に見えているかを他人は直接見ることはできない。当たり前のことだが、重要なポイントである。つまり、人は世界をそれぞれに意味づけながら生きているのと同じように、各人各様に色づけて見ている。ところが、写真はそのような差異を抹消する働きをする。それは見ている世界を共有しうるかのごとき幻想をもたらすと同時に、人間のいわば生きた知覚を殺す働きもする。カラー技術によって再現される色はそのような各人各様の見る色とは別物である。したがって、写真の本性を比較的正直に表わそうとすれば、モノクローム写真を選択するということになる。しかし、それとて相対的な解決に過ぎない。そもそもどう見えているかを共有することはできないのだから。だとすれば、写真を擁護しつつとるべき解決策として残るのは「ありえなさ」である。ありえない写真。それだけが知覚と写真の関係を正確に反映する解決策である。その意味では、ジャコメッリの異様な写真群は、辺見庸が取り出した「生と死のあわい」や「意識と無意識の識閾」の主題とは別に、あるいはそれ以前に、そのような「ありえなさ」を極めることを通して、「他者」を痛烈に問題化しているとも言えるだろう。「人生 13」でこちらに背を向ける人物(ジャコメッリ?)の姿はそれを強烈にユーモラスに訴えているように感じる。