この絵本は、たんに紙芝居についてのノスタルジックな物語ではなく、それじたいが紙芝居を模倣することによって、紙芝居に永遠のオマージュを捧げる作品である。
まえがきの中で、アレン・セイは子供時代の紙芝居(kamishibai, "paper theater")の思い出とその仕組みについて語り、こう続ける。
「つづく(To be continued)」と紙芝居屋がニヤリとしながら言う。僕らこどもたちは不満の声をあげる。でもたいした不満じゃない。ヒーローとヒロインは明日また新しい冒険にかりだされるのさ。そして僕らは僕らでまた新しい飴を食べることになる。
そう、紙芝居はサスペンス連続ドラマ(cliffhanger)だったんだ。だからアメリカに来たとき、何の説明がなくても分かったよ。今でも、どんな種類のサスペンス連続ドラマを見ても、紙芝居が僕に与えてくれた幸せな思い出が蘇るんだ。この本では、崖(cliff)は高くはないけれど、僕がある日のあなたの「紙芝居屋」になる。キャンディーは自分で用意して。(p.3)
「おわり(End)」ではなく、「つづく(To be continued)」。それが紙芝居の物語的な、芝居的な構造の要(かなめ)であり、それは文化の違いを超えて、人間にとっての物語的感受性の扉を開ける鍵にちがいないとアレン・セイは示唆しているように思う。しかもそれはとりもなおさず「幸福」の鍵でもある、と。
この絵本は、かつて紙芝居屋だったヒーローのじいちゃん(Jiichan)がある日ふと思い立って再び紙芝居屋として街頭に立ち始めるという、見ようによってはかなり「崖」の高い設定である。そんなじいちゃんにヒロインのばあちゃん(Baachan)はかつてと同じように飴を作って持たせる。しかし、時代の移り変わりは激しく、もはや紙芝居屋が成り立つ余地などどこにもない。じいちゃんは呆然とするなかで白昼夢のごとくにかつて大勢の子供たちが集まってきたときのことを思い出す。……。気づいたら目の前に大人になったかつての少年少女たちが大勢集まっているではないか。しかも、かつて飴を買うお金がなくていつも1人だけぽつんと他の子供たちから離れたところで見ていた男の子が今やテレビの取材でビデオカメラを持ってじいちゃんの前に現れる。じいちゃんは彼に飴を差し出す。……。暗くなってから家に帰ると、ばあちゃんはテレビのニュース番組を見ていた。それは紙芝居屋を特集したものだった。最後はこんな会話で締めくくられる。
「忙しい一日だったようだね」「いい日だった」「あしたも行くのかい?」「ああ、あさってもな」「じゃあ、もっとたくさん飴がいるね」「ありがとうよ。そうだ、いつもの2倍作ってくれるかな?」「そんなに砂糖があったかしら」と言って、ばあちゃんはテレビを消した。(p.30)
おいおい、いったいどうなるんだ!? 思わずそう口走ってしまいそうになる。まさにクリフハンガーな紙芝居そのものである。「つづき」が見たい! こんな風にして紙芝居にオマージュを捧げることができるとは。
この物語のなかに登場する紙芝居の演目名は以下の通りである。
ちなみに、私は幼い頃、一度だけ本物の街頭紙芝居を見た微かな記憶がある。飴を買ったか、もらったかして、固唾を飲んで見たのは「黄金バット」だった。幼稚園に入る前だから、昭和30年代中頃である。同年代のカミさんに言わせれば、まさか、あの時代にはもう紙芝居なんてなかったわよ、なのだが、私はたしかに見たのだ。「夢をみたのよ」「え?」