鈴木道彦著『越境の時』を読んで1

越境の時 一九六〇年代と在日 (集英社新書)

越境の時 一九六〇年代と在日 (集英社新書)

私には与り知らぬ私がある。日本で普通に生活している限り普段ほとんど意識せずにいられる「日本人」としての私が、外部からは「日本人」であるが故に、ある一定の意味を帯びるという事実。しかもその外部は日本国内にもあるという事実。日本国内に住む「外国人」、とりわけ「在日」と呼ばれる人々にとって、「日本人」でないことが、彼らの「私」を根底的に脅かし続けてきたという事実。

日本人であるとはどういうことか?

少なくとも1960年代の「在日」の人々にとっては、自分たちを不条理に差別する許し難い、たとえ殺しても「倫理上」許される存在であるということである。

そこに日本人としての私の「責任」、鈴木氏の表現では「民族責任」の問題が浮上する。「構造的な」重たい問題である。そんな問題に一日本人としてどう対処したか。それが1960年代の日本における、そして現在にも尾を引く根深い問題としてあることを鈴木氏は自らの体験を通して語る。

他我問題」であると同時に「自我問題」でもある問題。プルースト研究者としての鈴木氏がプルーストの『失われた時を求めて』の中に、ユダヤ人問題や同性愛問題の本質として見抜いた問題とも通底している問題。

私はあなたにとって、どんなあなたとして存在しうるのか?あなたにとって殺しても倫理上許されるような他者としての私とこの私の距離、壁、ハードル、境界。それを「越境」することができなければ、悲劇は繰り返され、最も基本的な「責任」さえ果たされえない。

鈴木氏はそのような越境を促す源泉を「共感」と呼ぶ。

しかしながら、鈴木氏の総括は苦い。日本人としての私は極めて醜い。それは日本が未だに醜い国家であり続けているからである。そしてその醜さを温存しているのは日本人であることに無自覚な私たち一人一人である。