- 作者: 鈴木道彦
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2007/04/17
- メディア: 新書
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日本人であるとはどういうことか?
少なくとも1960年代の「在日」の人々にとっては、自分たちを不条理に差別する許し難い、たとえ殺しても「倫理上」許される存在であるということである。
そこに日本人としての私の「責任」、鈴木氏の表現では「民族責任」の問題が浮上する。「構造的な」重たい問題である。そんな問題に一日本人としてどう対処したか。それが1960年代の日本における、そして現在にも尾を引く根深い問題としてあることを鈴木氏は自らの体験を通して語る。
「他我問題」であると同時に「自我問題」でもある問題。プルースト研究者としての鈴木氏がプルーストの『失われた時を求めて』の中に、ユダヤ人問題や同性愛問題の本質として見抜いた問題とも通底している問題。
私はあなたにとって、どんなあなたとして存在しうるのか?あなたにとって殺しても倫理上許されるような他者としての私とこの私の距離、壁、ハードル、境界。それを「越境」することができなければ、悲劇は繰り返され、最も基本的な「責任」さえ果たされえない。
鈴木氏はそのような越境を促す源泉を「共感」と呼ぶ。
しかしながら、鈴木氏の総括は苦い。日本人としての私は極めて醜い。それは日本が未だに醜い国家であり続けているからである。そしてその醜さを温存しているのは日本人であることに無自覚な私たち一人一人である。