工藤さんが大変稀少な『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会、2003年)を不要だからと言って私に譲って下さった。昼休みにわざわざ届けて下さった。なんと工藤さんはかつて印刷業界で働いていらしたという。その関係で手に入れられたそうだ。本書は市販されていない。私は以前この重厚大型本を図書館から借出してむさぼり読んだのだった。工藤さんは、私がともすればテキストだけに目を奪われがちな傾向に抗して、活字や組版や印刷など書物の唯物的位相、つまり「ページネーション」に関する記事をある時期に連発していたのに目を留めて、嬉しくなって、ちょうど処分にも困っていたので、私に譲ってくださったのだった。こんな嬉しいことはない。
本書の最後に鈴木宏光が司会を務める「書物の様式とメディア性 活版印刷によるその変容」と題した討議が載っている。討議に参加しているのは高木元、府川充男、雪嶋宏の三氏である。司会の鈴木氏の言葉が今や懐かしかった。
鈴木:書物の形態や様式、版面を構成する文字の書体や約物などの記号類、さらにマージンなどには、それぞれ意味や歴史的背景があって、テキストだけが情報ではない、ということは、ここにいらっしゃる皆さんの共通認識かと思います。また今日の話は、その方向で進んできたわけですが、近代社会ではそうした書物のモノ性よりもむしろ、そこに記されたテキストそのものに重きを置くという傾向を強めてきたことはたしかです。活版印刷術で書体が整理されたりとか、組版が定式化されたことも、大きな原因かもしれません。さらに今日のwebという環境がそうした流れに、ますます拍車をかけているようですが、最後に、このテキスト偏重の状況について、お考えをお聞かせください。
(中略)
鈴木:webであっても、テキストだけが情報ではないわけで、そこには言うまでもなく構造化されたフォーマットというものがある。見方によっては、そちらの方が本質だったりするのかもしれないですね。といったところで、今日はどうもありがとうございました。(439頁〜440頁)
テキスト外のテキストを支える各種の技術が複雑に継承され重層化した「ページ」から成る書物への「モノ性」をくぐり抜けるような深い眼差しは、最近の電子書籍の趨勢を考察するにあたっても必須であると改めて感じた。
ところで、工藤さんは宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に面白い箇所を発見したと話してくれた。あるページの「か」の文字が横になっているというのである。さすが、印刷業に携わっていた人の目である。かつての活版印刷時代の名残りですね、と二人で印刷の歴史を振り返った。楽しかった。工藤さん、どうもありがとうございました。