写真家・楮佐古晶章(かじさこあきのり)の南米漂流とMinha Vida(My Life)


南米漂流 Drift in The South Ameican Continental by akinori kajisako

随分前に『横浜逍遥亭』でひっそりと紹介されていたサンパウロ在住の写真家がなぜか心に残っていて時々ふと思い出す*1

珍しいお名前の楮佐古晶章(かじさこ あきのり)さん。中山さんは銀座ニコンサロン写真展での楮佐古(かじさこ)さんの写真とご本人との出逢いを、個人的かつ文化的な葛藤の観点から、とても印象的に綴っていた。その記事を読んで、楮佐古(かじさこ)さんのウェブサイトも訪れて、日本とは色んな意味で対極にあるブラジルで生きる楮佐古(かじさこ)さんのオープンな人生の記録(日記的な写真と文章)に惹かれたのだった。

楮佐古(かじさこ)さんの代表作は写真集になっている。


写真集「Minha Vida」*2

「自分史」とも称されるこの写真集に収められた写真の大半を下のページでまとめて見ることができる。それぞれに印象深い短い詩的散文が添えられていて、その写真とテキストのペアが、南米を漂流する自己の二重露出の写真のような表現になっている。

その点について中山さんは鋭く簡潔にこう書いていた。

写真とともにそこに添えられている短文が印象的で、僕はある意味でその写真を読んだのだった。

楮佐古(かじさこ)さんご自身は写真についてこう書いている。

写真の中のできごとは全く自分とは関係のないことなのだが、そこに存在する人物は自分自身だった。

ブラジルでの人物や光景との出会いのなかで一瞬光りを当てられて浮かび上がる、そのときどきの「自分自身」の姿が写真には写っている、記録されているということだと思う。

冒頭の「南米漂流」には[MINHA VIDA:]の他にも、多くの写真と文章によるブラジルでの生活の記録が掲載されている。なかでも、

は大変興味深い。サンパウロを中心としたブラジルの現実の細部を多面的に知る縁(よすが)となる。

日本的抑圧の閉塞感から逃れ、ブラジルに漂着した楮佐古(かじさこ)さんは、どん底の生活や打ち震えるような孤独感のなかで個人としての自由を感得することもあったが、しかし実際のブラジルは日本とは別の意味でウンザリすることも少なくないことが次々と明らかになっていく。家族ができてからも、いつもどこかがヒリヒリ、ズキズキと痛むような生活の記録には、決して完全には断ち切れない日本的自分とブラジルで生活している新しい自分との間の絶えざる葛藤が感じられる。その葛藤は当然の如く特に我が子(10歳になった息子のエドアルド君)の存在によって増幅される。他方、サンパウロに根を下ろして生きている大勢の日系移民の人たちの根の下ろしかたに楮佐古(かじさこ)さんの眼、カメラは向かいつつあるような気もした。

素朴に「ブラジル」に憧れるのでもなく、所詮「ブラジル」も......と短絡的に絶望するのでもなく、どこで生きようがある意味では変わらない人生の複雑さのすべてが、結局は各自の宿命的なペースで展開するという、それだけのことだと言ってしまえば、それだけのことが、楮佐古(かじさこ)さんの「日記」を通して、しみじみと感じられてくる。

蛇足ながら、「南米漂流」というタイトルには、南米を漂流し続ける楮佐古(かじさこ)さんの表向きの「自画像」とは別にもうひとつ、南米そのものが世界のなかで実は漂流し続けているという無意識のビジョンが反映しているような気がちょっとした。

*1:こうして大っぴらに紹介する野暮をお許しください。

*2:http://www.brasil-ya.com/kajisako/から注文できる。