私は活字のなかでも、なぜか昔から、ちっぽけで脇役扱いのルビ(Ruby Character)が好きだった。読みの難しい漢字に振ってあるよみがなだけでなく、著者独特の読み方を記したもの、あるいは本文組よりもルビ組の方が幅を利かせることも少なくない吉増剛造の詩に顕著な「割注」も大好きだった。
組版上のルビのルール。
ルビの一般的な説明。
ルビ(英:ruby)とは、文章内の任意の文字に対しふりがな/説明/異なる読み方といった役割の文字をより小さな文字で、通常縦書きの際は文字の右側/横書きの際は文字の上側に記されるものである。
明治時代からの日本の活版印刷用語であり、『ルビ活字』を使用し振り仮名(日本語の場合)やピン音(中国語の場合)などを表示したもの。日本で通常使用された5号活字にルビを振る際7号活字を用いたが、これはイギリスから輸入された5.5ポイント活字の呼び名がruby(ルビー)であったことからこの活字を『ルビ活字』とよび、それによってつけられた(振られた)文字を『ルビ』とよぶようになった。明治期つまり19世紀後半のイギリスでは活字の大きさを宝石の名前をつけてよんでいた。
ルビ(ウィキペディア、2008年3月14日検索)
そんなルビについて、『ページと力』(asin:479176000X)のなかで鈴木一誌(すずき ひとし, 1950年東京生まれ)はかつての夏目漱石のように、「新しい日本語を造り出そうとする意気込み」をもって、「組版の難所」とも言われる「ルビの組版」に大きな可能性を見ている。大変興味深い。
ルビの組版はやっかいだ。ルビ組版が困難だとの事情は、DTPでも変わらないが、視点をずらしてみるならば、ルビは偉大な発明だとも思えてくる。(114頁)
鈴木一誌は次のような呉哲男氏による精神分析家ジャック・ラカンの逸話まで引用している(114頁)。
日本語のエクリチュールに興味を持っていたラカンは、漢字の横に訓読みのルビを振る日本語の慣習を見て、そこに欧米人ならば意識下に抑圧するはずの精神の独特の仕方を直観したのであろう。すなわち、漢字の抑圧に対して訓読みで中和する日本語の構造のなかに、ラカンの精神分析理論にいう「去勢」とその排除のしくみ、言い換えれば、「不可避の他者」への独特の対応の仕方を見たのだ。
(呉哲男「書くことのパラドックス」『國文學』2002年3月)
ラカンの慧眼はさておき、鈴木氏は次のように、ルビは文字の世界を「多声的な世界」に繋げる力をもつことを示唆している。
ルビは本文に寄り添う。ルビは、本文という主線に並行して走るもういっぽんの線であり、行間という余白に棲まう副次的な流れである。ルビは、日本語の(ひとつの)特質である「漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字の四種類の表記法の混在」ゆえに実現可能なスタイルでもある。ひらがなの本文に、漢字やアルファベットのルビが付されることがあるし、読みばかりでなく、意味やもとの綴りや注釈を示すこともできる。傍点や棒線を、ルビ的なものと考えるならば、ルビの裾野はさらに広くなる。
ルビを、主役を批評するトリックスターだと捉えることが許されるだろう。ルビには、本文に並走する複数のまなざしとの観点からのさらなる表現の可能性がある。親文字の四分の一の大きさとすることや、拗促音を小さくしないなど、金属活字の物質的な限界によって決められてきたルビの組版ルールは、デジタル組版のなかでもはや論理的な正統性を保証されていないように感じる。ルビを、組版の難所としてのみ捉えるのではなく、多声的な世界に解き放てないものだろうか。マイナスをプラスに転じる発想で、マージナルな活力をルビに満たすことができるならば、制約としてあるほかの組版ルールも見直せるかもしれない。
(114頁〜115頁)
いかにして文字に声を回復させうるか。日本語には他の言語には見られない突破口が開かれているということだと思う。実はこの論点は、杉浦康平氏のコズミックな文字観に基づくデザイン思想に通じると感じている。
ちなみに、吉増剛造の詩に顕著な「割注」に関して、適当な実例を見せられないかと思って、ちょっと探してみたら、なんと日本語縦組の中にそのものズバリの欧文横組の「ruby」が交差した上に日本語のルビも振られたトンでもない文字組の例を見つけた。これは「組版の難所」どころか「地獄の組版」だろうと想像する。
先日紹介したイタリア語版『The Other Voice』所収の日本語部分。p.93
さすが吉増剛造はruby以下に「(ラテン語の『赤』の意から」とルビを振っている。それにしても、ルビが赤い宝石のイメージも纏っていることは意味深長だと感じる。