私はまだ日本語を知らない


『日本語書記史原論』asin:4305703238表紙部分。「書記」とは「writing(ライティング)」、「écriture(エクリチュール)」の意。

小松英雄『いろはうた 日本語史へのいざない』を読みながら、副題にある「日本語史」という言葉にかすかなひっかかりを感じていた。次第にそれは日本語に関する小松英雄独自の歴史的理解を表す言葉なのだということが見えてきた。しかもそれは私にとっていわば常識と化している母語としての日本語に関する「国語」的理解を根底から覆すような力を秘めていることも。


『いろはうた』asin:4121005589、『日本語はなぜ変化するか』asin:4305701847、『仮名文の構文原理』asin:4305702592、『日本語書記史原論』asin:4305703238の各表紙

小松英雄という学者はただ者ではないと感じ始めて、彼の一連の著書の概要を調べて、図書館からとりあえず三冊借出した。「国語」ではなく、あくまで「日本語」の、しかも「歴史」に強力な理論的光を当て、私の日本語理解を刷新してくれるような内容の本ばかりである。目からウロコが落ちるどころか、目をすげ替えると言っていいほどの衝撃があった。

そして、こういう出会いに導かれたのは、今まで文字、活字、書体の変異や変化を広義の「デザイン」の観点から辿ってきて、実はその動機の背景には「文字のかたち」あるいは「文字というかたち」に反映されている「日本語」という言語の歴史的変化、あるいは歴史的に変化してきて今も変化の途上にある動態としての日本語の「本来の」姿に迫りたいというもうひとつの動機が控えていからだったことに気づき始めていた。

特定の字体、書体、書風の文字で書かれたり、印刷されたりしたテクストは、その時代の日本語のいわば歪んだ鏡像である。その歪みを補正しなければ、そもそも当時の日本語、そしてそれがどう変化して後の、さらには現在の日本語へと成っていったかを知ることはできない。そしてそれを知らなければ、そもそも日本語を知っていることにはならない。

その意味では、私は日本語を全く知らない、と言っても過言ではないような状態にあることを痛感させられた。小松英雄によれば、日本語の本来の生きた瑞々しい姿を知るには、私が中学、高校時代に習ったいわゆる国文法は大きな妨げにしかならない。小松英雄は従来の国文法を根底から書き換えるために前人未到の「日本語史」に向かい、そのなかから日本語文法のダイナミックな姿を描き出す。面白い。