本物のサスペンスはサスペンスという印象を残さない


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小松先生はスランプに陥ると、きまって推理小説を読む人である。

小松先生からは「国語」から解き放たれた普遍的な地平で「日本語文法」を教わっている。

先生の書くものには、まるで推理小説を読むような、はらはらどきどき感に近い感覚を覚える。サスペンス! それもそのはずであった。小松先生はスランプに陥ると、きまって推理小説を読む人だったのだ。小松先生の文体には推理小説のサスペンスな香りが漂っている。もちろん、いわゆるサスペンスとは決定的に違う点がある。少なからぬ読者から本書や『いろはうた』を「推理小説のようだ」と批評されたことを受けて、先生はこう自己批評している。

スラムプに陥ると、きまって推理小説に手がのびてしまうので、知らず知らずに影響を受けたのかとも考えましたが、緻密に計算して構成しなければ推理小説のような展開にすることは不可能ですから、そういうことではなさそうです。わたくしの考えかたの筋道が推理小説の基本的なパターンと共通しているのではないかと考えたら、思い当たるふしがありました。(中略)犯人のように見えても即断すべきではない、というサスペンス(suspension)の保持が推理小説に通じるということなら、ことさらに改める必要はないでしょう。わたくしの自戒は、<膝をたたいたときが危ない>ということです。難問氷解の嬉しさがこみあげてきたときには思考は停止します。サスペンスにじらされず、思考の継続をエンジョイすることによって考察が健全に成長します。(中略)アカデミックな議論を推理小説の手法で組み立てることなど、できるはずがありません。論述の過程におけるサスペンスの持続は積極的に正当化しましたが、学的な著作なら、読後感までが推理小説のようであってはなりません。サスペンスから完全に解放された、という実感がなければ、そういう印象は残らないからです。真実はもっと遠くにあるはずです。
(「はしがき」7頁〜8頁)

いつでも「真実はもっと遠くにあるはず」だ。でもその「遠さ」は単純な「遠さ」ではなく、「近すぎて遠い」ということもありうるちょっと厄介な「遠さ」だと思う。先生に倣って私もまた「膝をたたいたときが危ない」を自戒の言葉にしよう。気がついたら、「焦るな」とか「ゆっくり」とか、自戒の言葉だらけだ。