愛とは常軌を逸した配慮である

夜の散歩では、変な言い方ですが、脳は非常に饒舌になります。脈絡なくいろんな言葉が湧き出てきます。いろんなことが次から次へと思い出されます。暗いアスファルトの路面や建ち並ぶ家々の壁や空は、そんな脳の異常な活動が映写されるスクリーンと化します。今夜の散歩では、とある角を曲がったときに、私にとってはかなり魅力的で危険な愛の定義が突然思い出されました。

愛とは常軌を逸した配慮である。

これです。誰の言葉かはこの際問題ではありません。ただし、「常軌を逸した配慮」は原語(英語)ではたしか"exorbitant attention"でした。文字通り「軌道から外れた注目」のことです。

それで、昨夜ロビンソン・クルーソー的な「価値形態論」の夢想の断片を記しましたが、すべてのものが「貨幣」であるような交換不可能な、でもなぜか共感可能な絶対的価値からなる世界は、そのような「常軌を逸した配慮としての愛」によって支えられるのだろうなあ、と思い至ったのでした。例えば、下川さんが「コサギ」に注目したhttp://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20080630/1214803445ような...

こんなこと書くと、シルビオ・ゲゼル「自然的経済秩序」印刷用PDFhttp://d.hatena.ne.jp/gintacat/20080703/1215088204をちゃんと読んでから書きなさい、と中西さんに叱られそうだけど、夜の散歩者の夢想ですから...

でも、最近は、植物と動物って、本当に恩寵と勇気に満ちた存在だと強く感じています。彼らとバランスを保つには「常軌を逸した配慮」しかないだろうとも夢想したりしているわけです...