月見遊びのせいか、いろいろと「月」づいている。『竹取物語』を思い出したり、『セーラームーン』を思い出したり、『ペーパームーン』を思い出したり、美崎薫さんが大好きらしい月のブランコに腰掛けるカップルの漫画の挿絵を思い出したり、『月島物語』を思い出したり、実際にid:taknakayamaさんとid:mmpoloさんと月島を散策したことを思い出したり、「月」に関わる連想が尽きないのであった。そのなかで、「あれ、あれ、んー、何だっけ?」となかなか思い出せない本の題名があった。その本は今手元にない。盛装した女の月が水たまりで転ぶくだりのイメージが忘れられない宮古島の月の伝説の感触が蘇っていた。「月」で始まることは思い出せた。「月、月、月、...」と何十回唱えても、その本の題名は浮かばなかった。確かロシア出身の言語学者の本だったが、その人物の名前も思い出せない。記憶力がみるみる衰えている。もう忘れてもいい情報なんだと自分を慰めたが、それにしてもひどい。しばらくして、「月と...」まで出てきた。でも「月と、月と、月と、...」と何十回唱えても、その続きは出て来なかった。しばらくして、やっぱりその続きは出て来ないので、とうとう諦めて、ある書店の和書検索に頼った。「月と」で検索をかけた。すると65件目にその本はあった。『月と不死』。ネフスキーだった。
- 作者: N・ネフスキー,岡正雄
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1971/01/01
- メディア: 単行本
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やれやれ。ネフスキーに関しては、意外だったが『ウィキペディア』には項目はまだない。「はてなキーワード」にこんな箇条書きの説明がある
ニコライ・ネフスキー(1892年―1937年)ロシアの東洋言語学者。
ネフスキーは1915年、官費留学生としてロシア帝国から来日した。
14年間日本に滞在し、柳田国男(柳田國男)、折口信夫、伊波普猷、金田一京助らと交流を深めながら沖縄の宮古島やアイヌ、台湾の少数民族の言語や文化を研究した。宮古島には22年、26年、28年と3度訪れている。
1937年にスターリンによる粛清で、北海道出身の妻イソとともに銃殺されたが、死後名誉回復された。
近年、宮古島方言の研究資料などが注目され、その研究のレベルなどが高く評価されている。
加藤九祚(国立民族学博物館名誉教授)による『天の蛇―ニコライ・ネフスキーの生涯―』(河出書房新社)が第3回(1976年)、大佛次郎賞を受賞している。
司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズの38巻『オホーツク街道』にネフスキーの人的交流が描かれている。
(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CD%A5%D5%A5%B9%A5%AD%A1%BC)
「不死」が出てきて、「ネフスキー」も出てきたので、一気に連想が広がった。グーグルで「ネフスキー」をウェブ検索にかけた。以下の記事が特に目にとまった。「宮古島」が私の中で大きくクローズアップされた。
- ネフスキーの業績掘り起こし必要/平良市でシンポジウム (『琉球新報』2001年7月1日)
- 曾祖父の遺志継ぎ日本へ ネフスキーの子孫が留学(『琉球新報』2005年7月16日)
- ネフスキーの宮古方言資料集出版 平良市教委(『琉球新報』2005年8月5日)
- ネフスキーの宮古方言ノート復刻(『琉球新報』2005年8月20日)
- ニコライ・ネフスキーと宮古諸島(田中水絵『農林金融』2005・231 )
- A.ネフスキイの「宮古島方言資料」(本間暁『早稲田大学図書館報』 No.31, 1991.9.20)
- 古層求めて宮古へ------正確に記述した天才、ニコライ・ネフスキー(森本真一郎『沖縄タイムス』2001年10月3日)
- ネフスキーの生涯(『ロシアが気になる』 2008-03-22)
- 特集:ニコライ・ネフスキー 悲運の東洋学者(『小樽商科大学広報誌ヘルメス・クーリエ』2006.7第14号表紙)
- 読書録「天の蛇〜ニコライ・ネフスキーの生涯」(『ある旅人の〇×な日々』2006年04月14日)
- ネフスキーと小樽の深い縁(asahi.com, 2005年09月29日)
曾孫が日本に留学していたとは。
最後に挙げたgooeichanさんの記事のなかで、こんな記述に目が留った。
本書の題名の「天の蛇」は、ネフスキーの論文「天の蛇としての虹の観念」のなかで宮古島で虹のことを「天の蛇」とよんでいることに注目して虹の語源が「天の蛇」にあると論証したのにちなんだものである。蛇については宮古島の説話に「変若水」がある。お月様が人間の長命のために不死の水を、蛇のために死水をよこしたのだが、誤って人間が死水を浴びてしまったというもの。
「天の蛇」としての「虹」、素敵だ。そして「変若水」か。
変若水(おちみず、をちみづ)とは、飲めば若返るといわれた水。月の不死信仰に関わる霊薬の一つ。人間の形態説明の一部としても形容される。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E8%8B%A5%E6%B0%B4)
月が蛇を介して水につながり、不死観念にもつながる。月には狂気も寄り添う。面白い。ネフスキーの「悲運の生涯」そのものが「月」が引き連れるイメージ群と親和的な気がする。普通の意味では「悲運」かもしれないが、彼の繊細で複雑な業績は言わば永遠の生をうけているように感じられる。それとは対照的なのが「太陽(日)」が引き連れるイメージ群である。もちろん両者は表裏一体であるが。
同じgooeichanさんの記事のなかにネフスキーと同じ帝政ロシアからの留学生だったエリセーエフに関する記事へのリンクがあった。
興味深いので、全文引用させていただく。
「エリセーエフの生涯〜日本学の始祖」:倉田保雄、中公新書を読んだ。
明治41年に東京帝国大学文学科に入学した帝政ロシアの留学生がいた。大富豪の息子のエリセーエフ、19才だった。11才の時、パリ万国博を見学して東洋文化に関心を持っていた。本郷に一軒家を構え、お手伝い数名を雇い、家庭教師3人をつけ日本語の特訓を受けていた。そこいらの苦学生とはスケールが違う。漱石門下にもなり、芸者遊びもし、日本舞踊もならい、さらに歌舞伎の吉衛門や菊五郎との交遊もあった。卒論は「芭蕉研究の一片」で準優等卒業をしたほど優秀で大学院にも進んだ。
大学院課程を修了しロシアに帰り、ペトログラード大学で教鞭をとっていたが革命で不自由になり亡命する。パリに移り、ソルボンヌ大学で教鞭をとり、フランスに帰化する。そうこうしているうちに、米国のハーバード大学の要請を受けて東洋語学部教授に就任。ライシャワーなど数多くのジャパノロジスト(日本学者)を育てる。戦争中は米軍語学将校の日本語教育や日本文化の教育にも従事した。神田神保町の古本屋街が空襲を免れたのは、彼がマッカーサーに進言したからだという。
戦後、日本を訪れ、神保町古本屋で資料を買いあさり、古書を高騰させる影響を与えたという。昭和32年、米国の教授の職を辞しパリに戻る。日本文化と漱石文学をこよなく愛し、昭和50年パリで死去した。小泉八雲以上の大物学者なのだが、この著書で彼の存在を初めて知った。教育活動に熱心であまり著書を残さなかったことで知られなかったのかもしれない。エリセーエフの手に入りやすい著書として「赤露の人質日記」:中公文庫がある。
ネフスキーと同じように日本に留学しながら、対照的な人生を歩んだ人物である。エリセーエフに関してはウィキペディアに項目がある。