キジムナーからコロポックルへ。hayakarと行くishkarその3


左はガジュマルの家。右は本物のガジュマルの葉。2006年の奄美自由大学に参加した際の「パスポート」。

大島孝雄著『ガジュマルの家』を手にした時、二年前に、生まれてはじめて奄美大島を訪れ、ガジュマルの樹にはじめて接して、驚きのあまり、写真を撮り続けたことを思い出していた。こんな感じの写真。id:Ryu-Higaさんにとっては、ありふれた馴染み深い樹なんだろうけどね。




何に驚いていたのだろう。それをはっきりさせる為に、今住む土地で植物たちに眼を向けるようになったのかもしれない。

ガジュマル(榕樹, Chinese Banyan/Malayan Banyan, Ficus microcarpa)は熱帯地方に分布するクワ科(Moraceae)の常緑高木である。

樹高は20m。幹は多数分岐して繁茂し、囲から褐色の気根を垂れる。垂れ下がった気根が自分の幹にからみつき、派手な姿になる。気根は当初はごく細いが、太くなれば幹のように樹皮が発達する。地面に達すれば幹と区別が付かない。

沖縄県ではガジュマルの大木にはキジムナーと言う妖精のようなものが住んでいると伝えられる。
ガジュマル - Wikipedia

『ガジュマルの家』は濃厚な神話的物語的香気を放ってかなり魅力的な本である。物語は、語り部である「ぼく」は「ガジュマルを父として、人間を母として生まれた」というとびきり素敵な「自己紹介」から始まる。そしてこう続けられる。

そしてそれよりも重要なのは、人間として生まれるずっと以前からぼくは存在していたということだ。笑わないでほしいのだが、人間に生まれる前はキジムナーだった。キジムナー……樹木の精霊、樹木に住む妖怪。人はそう呼ぶ。それは人間の恐怖が生み出したあやふやな存在に過ぎないという説もある。古来より人々は、未知への恐怖を想像力で克服してきたものだが、ぼくが興味を惹かれるのは、それに呼応してぼくらを取り巻く事物が変身することだ。
(9頁)

大人たちには見えない精霊的存在やそのような存在に気づく子供たちの眼を通して、人間の絶望と希望を語るという手法は、いわゆる「魔術的リアリズム」として手垢が付きすぎたという人もいるかもしれないが、そこにはやはり物語ることの普遍的なモデルがあるような気がする。

キジムナーは水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとして、漫画やアニメなどで視覚化されてきた。


鳥取県境港市・水木しげるロードのキジムナー像

フクロウをデフォルメしたようにも見える眼の大きな子供のような姿は意味深長である。

柳田国男折口信夫以来、キジムナーは、岩手県座敷童子をはじめとして世界各地に伝えられる各種の精霊的存在との類似性が指摘されてきたが、私には、一般的にはかなり筋違いなはずだが、なぜか、アイヌの伝承に登場する小人のコロポックルが連想されて仕方がない。じゃがポックルの名はコロポックル由来だけど、コロポックルアイヌの妖精ではないからね。念のため。

そういうわけで、id:hayakarとelmikaminoは南のガジュマルの妖精キジムナーを思いながら、あちらこちらでコロポックルの姿を見かけるような旅をすることにもなりそうな予感がするってこと。