翻訳不可能

レヴィ =ストロース+今福龍太による『サンパウロへのサウダージ』(asin:462207351X)は、「サウダージ」という一語に負荷されたブラジル人の体験とポルトガル語の全域、全貌にかつてない光を当てたように思われる。この一冊によって、「サウダージ」の一語が日本語に「翻訳」されたと言えるだろうか。

 <サウダージ> Saudadeという単語は翻訳不可能だ、とブラジル人はいう。日本人もまた、彼らのことばで<あわれ>という単語について同じことをいう。興味深いのはこれらの語にある共通性が見られることだ。どちらの単語にも<ノスタルジア>に近い意味を探りあてることができるのだ。しかしそれだけでは誤解しやすい。なぜなら、ポルトガル語にはすでにノスタルジアという語が存在し、日本人もホームシックという英語を自分たちのものとして取り入れて使っているからだ。だからそれらの語の意味はノスタルジアと同じではない。
 語源にしたがえば、<ノスタルジア>とは過ぎ去ったものや遠い昔への感情である。一方、<サウダージ>や<あわれ>はいまこの瞬間の経験を表象しているように思われる。感覚によるか、あるいは想起によるか、いずれにせよ、そこでは人やモノや場所の存在が、それらのはかなさ、一過性についての激しい感情に浸された意識によって完全に占領されている。
(レヴィ = ストロース「サンパウロへのサウダージ」、『サンパウロへのサウダージ』3頁)

ブラジルという、愛と悲嘆とを現在の上にひたすら重ね書きする、サウダージの領土
(今福龍太「時の地峡をわたって」、『サンパウロへのサウダージ』170頁)