ノスタルジーとサウダージ

姜信子さんの「旅人」に寄り添う歌に関する一連の「旅」の物語を読みながら、その底流をなすノスタルジー(郷愁)が、先日百歳で亡くなったレヴィ = ストロースが語ったサウダージに限りなく接近するのを感じていた。ウズベキスタンの片田舎にある高麗人の村、ボルシェビークで老人たちが次々と歌う、流浪と離散の生を強いられたかつての植民地の民の想いを乗せた歌、百年前に日本で生まれた歌、を聞いた姜信子さんはこう記した。

 思うに、地層のように積み重なった流浪と追放の記憶を胸に、今も寄る辺ない旅人として辺境に生きる高麗人の心にしみいる何かがある歌ならば、それはもう彼ら高麗人の歌なのです。
 ボルシェビークの夜。旅人たちの歌の宴。私はそこで、歌をたずさえた百年の旅の始まりの場所に寄せる郷愁ではなく、今も旅の中にある人々の寄る辺ない日々のため息や、いつかきっとたどりつくであろう旅の終りの場所に寄せる郷愁を耳にしていました。(姜信子『追放の高麗人』22頁、asin:4883440842


「今も旅の中にある人々の寄る辺ない日々のため息や、いつかきっとたどりつくであろう旅の終りの場所に寄せる郷愁」。これは、どんな人にとっても人生が旅であり、どんな人にとっても多かれ少なかれその人生は流浪と追放の記憶を胸にしまって歩き続ける旅であるとするなら、高麗人ではない私たちにとっても無縁ではない感情なのだと思う。そして、それ(郷愁)は、晩年のレヴィ = ストロースが彼の人生=旅の出発点ともなったブラジル(サンパウロ)に対して抱いた「サウダージ」というある意味で翻訳不可能な複雑な感情に限りなく接近する。

 <サウダージ> Saudadeという単語は翻訳不可能だ、とブラジル人はいう。日本人もまた、彼らのことばで<あわれ>という単語について同じことをいう。興味深いのはこれらの語にある共通性が見られることだ。どちらの単語にも<ノスタルジア>に近い意味を探りあてることができるのだ。しかしそれだけでは誤解しやすい。なぜなら、ポルトガル語にはすでにノスタルジアという語が存在し、日本人もホームシックという英語を自分たちのものとして取り入れて使っているからだ。だからそれらの語の意味はノスタルジアと同じではない。

 語源にしたがえば、<ノスタルジア>とは過ぎ去ったものや遠い昔への感情である。一方、<サウダージ>や<あわれ>はいまこの瞬間の経験を表象しているように思われる。感覚によるか、あるいは想起によるか、いずれにせよ、そこでは人やモノや場所の存在が、それらのはかなさ、一過性についての激しい感情に浸された意識によって完全に占領されている。

(中略)

 私が近著のタイトルで、ブラジルにたいして(そしてサンパウロにたいして)<サウダージ>という表現を採用したのは、もうそこに自分がいないのだという悲しみによるものではなかった。あれほど長いあいだ訪ねることもしなかった土地にたいして、いま嘆き悲しんで何の役に立つというのだろう。むしろ私は、ある特定の場所を回想したり再訪したりしたときに、この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締めつけられるような心の痛みを喚起しようとしたのだった。

(レヴィ = ストロース『サンパウロへのサウダージ』3頁〜4頁、asin:462207351X


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