映画の汀で


                    「列車の到着」2007


実験映画を制作することに生涯をかけることはまぎれもなく人生そのものを大きな実験の中に投げ込むようなことだが、さらに、そのような人生の中で実験映画制作からさえも生産的に逸脱していく身振りと作法には狂気とすれすれの大きなユーモアを感じる。素敵だ。彼は映画の汀に佇む映画の申し子のようだ。


映画の過去と未来をフットワークよく行き来しながら、映画にまつわるあらゆるものを、映画を慈しむ心の薄い、薄い、そう、デュシャンにも近づきながらね、層、薄膜、それが映画の本当のスクリーンなんだよ、とそっと囁きかけるようにして、そんな儚い境域に並べてみたり、組み合わせみたり、そう、「ブリコラージュ」(レヴィ = ストロース)してみせる。彼の「さくひん」たちは、ミクストメディアとかコラージュなんて粗い言葉じゃ、つかまえられないフラジャイルでヤクザな波と風を孕んでいる。

「Plate #26」2007
「Plate #27」2007

映画にまつわるものの外延は日常生活の外延と一致するはずで、だから、ホーマックに売っているようなありふれた家庭用品からだって、「映写機」が作れちゃうのサ。

「2064年頃」2007

映画を祝福する、映画にオマージュを捧げるのに、こんな身振り、こんな作法をさりげなく教えてくれた伊藤さん、ありがとう。イメージフォーラム・フェスティバル2008サッポロで「デュシャン」を介して深くすれ違ったことを忘れません(「富山加津江さんにお会いする」2008年10月11日)。

「映画の発見」2007