沈黙の通訳

千野栄一著『プラハの古本屋』(asin:446921096X)の冒頭の一文「沈黙の通訳」(5頁〜15頁)では、チェコ語を知らない日本人と日本語はもちろん英語も知らないチェコ人との間の言語の壁を超えるコミュニケーションの生き生きとした姿が、通訳や翻訳に対する通念を心地よく破壊する快楽とともに活写されていて、ひじょうに腑に落ちるところがあった。それはプラハに駐在していた日本のある商社に勤めるT氏に誘われて行った聖トマーシュ・ビヤホールでの通訳にまつわる千野先生にとっては「苦い思い出」(6頁)でもあった。というのは、チェコ語ができる千野先生がT氏に乞われるがままにその場ではよかれと信じてすらすらと通訳してしまったことが、コミュニケーションの一番大事な時間を奪ってしまったことを後でつくづく後悔したというのだ。そして後年、同じ聖トマーシュ・ビヤホールで一緒に飲んでいた若い友人I氏がたまたま隣に座った見知らぬお嬢さんと楽しげに話し込み始め、そのうち話が通じなくなったらしく、助けを求めるような目差しを先生に向けた時にその「苦い思い出」が蘇ったというくだりはこう結ばれる。

おいしいビールを飲みながらの楽しい時間を縮めるような、心ない通訳にまさる沈黙の通訳もあることを教えられた私は、さりげなく横を向いて、ほろ苦くて甘いビールのジョッキをかたむけたのである。

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分からない、通じない時に体験していることの豊かさというものが確かにある。助けを借りて分かる、通じることで失われるものも確かにある。この一文を読んだ時、私はもっともっと長い時間言葉さえ失って途方に暮れているべき場合に、分かったつもりになって無闇に先を急ぎすぎるのかもしれないなどと思わず自分の性急な性格を反省してしまった。