論理的表現の領域

論理学概論受講生のみなさん、こんばんは。元気ですか?

私は元気です。

前回はオリエンテーションということで、この講義の概要、雰囲気、そして講義以前の「大学生やっていることの深ーい意味」についてお話ししました。覚えていますか。そう、大学に入ったときから広い意味でシューカツは始まっているのだという身の引き締まるような真実です。それについては折にふれて何回も敷衍することになるでしょう。楽しみですね。

さて、いよいよ明日から本格的な「論理トレーニング」に入ります。前回簡単に説明したように、私たちはこれから自由に飛躍することを本領とする複雑な生の思考ではなく、そういう思考過程と結果を誰にとっても納得がいくように整理して再現することを本領とする論理の世界に飛び込みます。そこで何よりも意識的、自覚的になるべき相手は、「言葉のつながり」、難しく言えば「接続関係」です。具体的にはさまざな「接続表現」のはたらきを正確に見分けたり、正確に使い分けられるようになることを目指します。

ところが、私たちの前には最初から厄介な壁が立ちはだかっていることを知っておいて下さい。教科書に指定した『新版 論理トレーニング』(asin:4782802110)の著者である野矢茂樹さんはこう書いています。

日本語の使用において一般に接続表現は敬遠されがちである。さらに言えば、われわれはあいまいな接続関係を好みさえする。そしてときには、あいまいに響き合う複数の叙述や問いかけが、独特の効果を生み、名文ともなるだろう。
 だが、われわれはしばらく「美しい日本語」を忘れることにしよう。接続関係の明確な骨張った文章を、正確に理解し、自分でもそのような表現を作れるようになる。そのため、あえて可能なかぎり接続表現を明示し、吟味することにしよう。それはまた、論理的な日本語の再発見であもる。
 (野矢茂樹『新版 論理トレーニング』(産業図書)15頁)

実際に、私たちが日々目にする日本語の文章、耳にする日本語の話の多くでは、野矢さんが言う通り「接続表現は敬遠されがち」です。しかしそれは一概に否定されるべきことではありません。この講義で私たちがとる立場と進むべき道は正反対だというだけです。それについて野矢さんは「注」でこんな例を挙げて補足しています。

たとえば、谷崎潤一郎の『文章読本』では次のように言われている。「現代の口語文が古典文に比べて品位に乏しく、優雅な味わいに缺けている重大な理由の一つは、この「間隙を置く」、「穴を開ける」と云うことを、当世の人たちがあえて為し得ないせいであります。彼等は文法的の構造や論理の整頓と云うことに囚われ、叙述を理詰めに運ぼうとする結果、句と句の間、センテンスとセンテンスの間が意味の上で繋がっていないと承知が出来ない。(中略)ですから、「しかし」とか、「けれども」とか、「だが」とか、「そうして」とか、「にも拘らず」とか、「そのために」とか、「そう云うわけで」とか云うような無駄な穴埋めの言葉が多くなり、それだけ重厚味が減殺(げんさい)されるのであります。」(谷崎潤一郎文章読本』(中公文庫)、208ページ)まさしく、本書はこれとは正反対の立場をめざすものにほかならない。
 (同書201頁〜202頁)

野矢さんは言及していませんが、面白いことに、谷崎潤一郎の引用部分に関して、谷崎の主張とは裏腹にその文章そのものは主張のつながりを明示する接続表現(指示表現も含めて)が的確に用いられた非常に論理的な文章なんです! 古くさい言葉遣いに思われるかもしれませんが、よく見て下さい。「〜理由の一つは」、「結果」、「ですから」、「それ」のおかげで、一回読めば、言いたいことが頭にすーっと入って来ますよね。乱暴に要約すれば、論理的表現にとらわれた文章は味気ないという主張が論理的に展開されているわけですよ。面白いでしょ。

さらにもう一箇所「名文」というところにつけられた「注」にはこうあります。

 一例を挙げてみよう。------「英国のチャアチルは一生酒を飲み続けて体中の細胞がアルコオル漬けになつて病気になりたくても菌を寄せ付けず、それで長寿を全うしたといふ話がある。呉市で作るやうな奈良漬けにもその旨味がある。」(吉田健一『私の食物詩』(中公文庫))------チャーチルについての主張と奈良漬けについての主張の接続関係は不明であり、指示詞「その」も何を指すのやらよく分からない。しかしここには、俳句で異質なふたつのものを強引に結びつけて独特の効果を生むときのような、職人的な文章づかいがある。これはもう、論理的表現の領域ではない。そして、これはこれできわめて重要な日本の言語文化なのである。
 (同書202頁)

どうですか? 吉田健一さんの文章は凄いですね。ここで野矢さんは決して皮肉ではなくて、「論理的表現の領域」には入らない「日本の言語文化」は厳然として存在する、と何歩か引いた場所から注意深く主張しているわけです。しかもそれは非常に重要な表現の領域であると。しかし、どうでしょう? 指示詞「その」の超絶技巧的な用法に潜む複雑深淵な指示関係と接続関係を私たちは直観的に把握しているのではないか。そしてそれをある程度は顕在化させることは不可能ではないのではないか、と私は感じるのですが。感じるだけで、それを取り出すことは気が遠くなるような作業のような気がすることも事実ですが。これは宿題にしておきましょう。興味のある人は考えてみてください。

本旨に戻ります。

私たちがこれから臨む論理的表現の世界は「領域」という観点からは言語文化全般からみれば非常に限られた領域ですが、しかし、それは「コミュニケーション」という観点からは言語文化全般にとっての、普段は気付かれにくい、あるいは見えにくい土台や骨組みのようなものなのだということです。すなわち、言語表現に関して谷崎潤一郎が重視した「品位」や「優雅な味わい」や「重厚味」などの修辞的な効果は実は論理的であることと対立したり排除しあったりすることはないということですね。そういう柔軟で広い視野を保ちつつ論理トレーニングに入ることにしましょう。

ここまで付き合ってくれた学生さんは、以上の文章、私が出来るだけ論理的に書いた文章を論理的に読んでくれたことになります。最後に論理的に「読む」という行為の本質についての野矢さんの考えを引用します。

「読む」とは、たんに印刷された文字の順に読んでいくことではない。まとまりをつけ、その関係を見てとっていく主体的な作業なのである。ときに後戻りしつつ、ときに距離をとって全体を眺め渡し、あるいは必要に応じてメモをとりつつ、テクストが持っている議論の運動を自ら再現していく行為、それが「読む」ということにほかならない。
 (同書16頁)

読むとは、「テクストが持っている議論の運動を自ら再現していく行為」である。なるほど。そうは言っても、「テクスト」には始まりと終わりという大きな断絶があるけど、それらはどこにどう接続しているんだ? などと考え始めちゃった人は、例えば、次のような生の思考に直結する高度な読書行為論を参考にしてください。

……本というものは、所有した以上はかならず読まなければならないというものではありません。また一冊一冊、はじめから最後まで読み通さなければならないものでもない。なぜかというと、本のなかのある断片をとりだして読み、それを別の本のなかのある断片とつなぎあわせながら読み解く、というのも本質的な読書行為だからです。それから、本を買って持っておくことは、かならずしもただちにそれを読むという行為には結びつきません。手に入れた本をすぐには読まないで書棚に収め、やがてその存在を忘れてしまう。けれどもその忘れられた本が、何十年も後に再発見されて自分の思考に突然親密に語りかけてくる、ということがしばしばあります。
 (今福龍太『身体としての書物』(東京外国語大学出版会)34頁)

私も普段はこれに近い本の読み方をしています。それでは、ここから先は教室で。