前略。
議論の構造の基本形は頭に入りましたか。
議論の基本は、必要に応じて解説や根拠を伴った主張を、付加か転換の形でつなげていくこと、ここにある。
ここで、「解説」とは当の主張の意味がよく分からない場合の問いかけ(「どういうこと?」)に対して与えるもの、「根拠」とは当の主張の理由がよく分からない場合の問いかけ(「なぜ?」)に対して示すものでした。
さて、これから私たちは、特に「根拠」に注目したトレーニングに入ります。とはいえ、専門的な議論に限ったことではありません。「なぜ」の問いかけに対して「なぜなら」と答えていく、日常的なやりとり(「論証」と呼びます)すべてが相手です。その際、注意すべきことは、自分の言いたいことを羅列するだけでは議論にはならないということです。
何を言いたいのかだけではなく、なぜそう言えるのかも示す。そうして互いの主張とその根拠を吟味してはじめて、議論になる。だから、なによりもまず、なんらかの主張に対して「なぜ」の問いを投げかけることからトレーニングははじまる。
(同書56頁)
野矢さんは、簡単なトレーニングとして、講義などで教師がなにごとかを主張するとき、「なんでそんなことが言えるのか」と問うてみるとよい、とアドバイスし、こう強く主張しています。
少なくとも大学では、「なぜ」の問いに答えてくれないような授業は許されるべきではない。
(同書55頁〜56頁)
私も同感です。ただし、この主張には興味深い注が付されていることを見逃さないでください。
老婆心からの忠告であるが、「なぜそんなことが言えるのか」という問いを友人や家族に向かってみだりに発すると人間関係を損ねるおそれがあるので注意されたい。しかし、なぜ、論証を求めると人間関係が悪化するのだろう。おそらく、ある主張に対して論証を求めると、それは、その主張に疑いを表明したものとして受け取られてしまうのである。そしておそらく、自分の意見を共有してくれない相手とはつきあいにくいと感じてしまうのだろう。だとすると、大学の教師もまた、あまり「なぜ」と問うと気を悪くするかもしれない。しかし大学の教師にはその感情を克服する義務があると私は思う。------余分な注ではあった。
(注46、同書208頁)
この結論には「根拠」は明示されていませんが、大学の教師に限らず、専門家にはそのような義務、すなわち社会的な責務があるのは当然であると私も思います。あるいは、子供を前にした大人にも。ちなみに、私は「なぜ?」と問われるのは大歓迎です^^
そういうわけで、時と場合をわきまえつつ、「なぜ?」と問いかけるトレーニングに入ります。