「むしろ」の論理

前略。

前回、皆さんが一番迷った「課題問題2 問4」の問題文の終盤に登場する「むしろ」について補足説明をしておきます。

すでに学んだように、「むしろ」は「付加」という接続関係を表わす表現に分類されます。その実際の用法について、野矢茂樹さんはこう書いています。

 「むしろ」は二つのことがらのうち一方を選びとることを表わす副詞であるが、そこから派生して、しばしば否定的主張に肯定的主張を付加する接続表現として用いられる。つまり、「AかBか」という選択肢があるとき、この二つのうち、まず「Aではない」と否定的に主張し、それでは言い切れていない内容を、「むしろB」と積極的に付加するのである。
(中略)
 付加の接続関係として用いられるときの「むしろ」の特徴は、「Aではない、むしろBである」のように、否定文に肯定文を付加する形になるということである。

 (『新版 論理トレーニング』23頁)

つまり、ここで重要なのは、新たな論点を付加するような接続関係を担う場合の「むしろ」の用法なわけですね。「なんか、難しいな〜」と感じる人も少なくないと思います。実は野矢さん自身も「むしろ」の説明の仕方についてはずいぶん悩んだようで、実際に、関連する「注」を三つも付けています。

まず一つ目はこうです。

 もちろん、付加の接続関係を表現するのでないような「むしろ」の使い方もある。たとえば、「お姉さんよりむしろ妹の方がしっかりしている」というような「むしろ」は姉と妹を比較しているのであって、論点の付加があるわけではない。(「注 9」、203頁)

二つ目はこうです。

 「むしろ」と「したがって」や「だから」といった帰結を導く接続表現の関係はなかなか微妙なものをもっている。次を比較してみよう。

 (a) 葉書の宛名をパソコンで印刷するのは好きではない。[むしろ/だから]私は手書きで書くのが好きだ。
 (b) 葉書の宛名をパソコンで印刷するのは好きではない。[むしろ/だから]私は手書きで書いている。

(a)には「むしろ」が入り、(b)には「だから」が入るところだろう。どうしてこのような違いが生じるのか。よかったら考えていただきたい。私自身の考えは注 25に書いておく。(「注 10」204頁)

その三つ目の「注 25」にはこうあります。

 注 10の続き:以下、私の個人的な考えを書いてみる。残念ながら、これが正解である自信はまだない。一応参考にしてみていただきたい。
 (a)と(b)のような違いが生じるのは、その背後にある「AかBか」という選択肢がどれほど網羅的かによると考えられる。「AかBか」という選択肢が網羅的で、第三の選択肢Cが常識的に考えてあまり思いつかないような場合には、「AかBか」と「Aではない」からBが結論されることになる。このような場合には、「だから」を用いて不自然ではない。
 しかし、「AかBか」という選択肢があまり網羅的ではなく、AでもBでもない第三の選択肢Cが常識的に考えてもすぐに思いつくような場合には、「AかBか」と「Aではない」からBを結論しようとしても、Cでもいいじゃないかと言われてしまうだろう。そのような場合には、Aを否定したあとに積極的にBを選び取ることで新しい情報が付けたされる。つまり、その場合には、「だから」ではなく付加の「むしろ」を用いることになる。
 そこで(a)「葉書の宛名をパソコンで印刷するのは好きではない。むしろ私は手書きで書くのが好きだ」を見ると、「葉書の宛名をパソコンで印刷するのが好きか、さもなくば手書きで書くのが好きだ」というのは、ふつうに暗黙の前提とされるようなことがらではない。「どっちも嫌いだ」というのはごくふつうの選択肢として考えられるだろう。そこで、「手書きが好きだ」と主張することは、情報の付加となる。
 それに対して、(b)「葉書の宛名をパソコンで印刷するのは好きではない。だから私は手書きで書いている」は、まず「印刷は好きではない」から「印刷はしない」が導かれ、そこに暗黙の前提「葉書の宛名は印刷するか手書きで書くかだ」が働いて、「だから手書きで書く」と結論されるものとなっている。この場合の暗黙の前提は「葉書の宛名は印刷か手書きかどちらかだ」というものであり、これはかなりふつうに認められるものだろう。(「注 25」206頁)

どうですか? やや分かりにくいかもしれないのは、前半の一般的な説明における「選択肢の網羅性」という観点、そして後半の(a)と(b)の具体的な解説それぞれにおける「暗黙の前提」の内容ではないかと思います。

(a)では、「『どっちも嫌いだ』というのはごくふつうの選択肢として考えられるだろう」にひっかかりませんでしたか。私はちょっとひっかかりました。それより「どちらも好きでも嫌いでもない」というのがごくふつうの第三の選択肢として考えられる、つまり「どっちが好きか」は「網羅的」ではないから、「むしろ」を用いるのだ、という説明の方が分かりやすいのではないでしょうか。

(b)では、葉書の宛名書きに関して、ふつうに考えて、実際に「印刷するか手書きで書くか」のどちらかしか選択肢はない、つまりそれで「網羅的」なわけですから、「だから」で腑に落ちるのではないかと思います。

それにしても、野矢さんの「残念ながら、これが正解である自信はまだない」という教科書にあるまじき驚くべき謙虚な発言に非常に好感がもてると同時に、この人は本当によく考えている、よく考えようとしているんだなあ、と感動さえおぼえる箇所ですね。

そういうわけで、「課題問題2 問4」に関しては、「人殺し」を問題視する場合の選択肢(③と⑤)が必ずしも「網羅的」ではないから、つまり他の選択肢(問い方)がありうるから、著者(村瀬学)は「むしろ」によって積極的に新しい問い方(⑤)を付加的に提起しているのだと考えられます。