人生の意義


 読み続けているだけでなく、毎日切り抜いてファイルし続けているところが偉い。


愛読している新聞連載小説、森見登美彦作・フジモトマサル画『聖なる怠け者の冒険』は今日で44回目を迎えたが、もう/まだ「第二章 充実した土曜日の全貌」の途中である。もう/まだ物語の中では一日目の午後である。実時間ではすでに一月半くらい経っている。いうまでもなく、物語の醍醐味のひとつは時間の操作にある。時間の編集。これは、逆に実人生にも応用できることである。つまり、実人生における時間を物語におけるように自由にコントロールすること。大事な時間を「引き延ばす」こと。物理的な時間を「追い越す」こと。

ところで、この小説の大きな特徴は以前も書いたように「紙芝居」的なところである。フジモトマサルさんの絵が単なる挿絵の域を大きく越えて、森見登美彦さんの文章と対等に深くインタープレイしていて、コラボとはこういうものだ、と言いたくなるひとつの良いお手本になっている。例えば、38回目の画は少なくとも私にとっては衝撃的な出来事であった。その画の「視点」には本当に驚いた。


 38回目の画


森見登美彦さんの物語りにも独特の物語る視点というものがはっきりとある。それはもちろんそれ自体は語られることはないが、語られたことからたえず逃げさるような、語られたことの隙間から垣間見えるような、そんな視点である。そんな視点を横目で窺いながら、物語を読むのは楽しい。それで、38回目のフジモトマサルさんの画は、建仁寺の塀に沿った道で玉川さんがポンポコ仮面を捕まえ損なった直後の場面を描写するものなのだが、それがなんと建仁寺の塀の真上から、玉川さんの上半身を見おろす視点で描かれているのである。だからどうした、と言われそうだが、何て言うか、ありえないことだが、もし私が画を担当していたとしても、決して取れない視点だが、これしかないと思わせる斬新な視点だと感じたのである。ハッと驚いたのである。素人の浅はかな感動にすぎない、と言われればそれまでだが。

ところで、今日の44回目では、主人公の小和田君の同僚で、「人生の意義」について思い詰めるタイプの「考える人」立松君と、二人が勤める研究所の「スキンヘッド」所長が紹介されている。「有意義な人生」とは何かについて、「考えてもしょうがないことを考えているということは、僕だって分かっているんだ。だからよけい苛々するんだ…」と言って画のように顎に指を当てて考え込むような立松君の相談に乗った所長の言葉は含蓄がある。

「どういうわけか私は知らないけれど、人生の意義というものは、捕まえてやろうと思い詰めていると逃げて行く仕組みになっているのですよ。(中略)チラッと横目で窺うぐらいがちょうどいいんです。見つめる鍋は煮えないものです」

もちろん、物語る作者の「視点」はそこからも逃げて行く仕組みになっている。


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