フトコロをふか〜く

前略。

自分が知らず知らずのうちに囚われている価値や規範、容易には言葉にすることはできないことも多い暗黙の前提(これは今回の重要なポイントになります)が、論理的であるべき議論の現場でも濃厚な影を落とすということは日常茶飯事です。

前回、みなさんが一番戸惑った「あえて反論する」というトレーニングは、もしかしたら、それが原因で一歩も先に進めなくなっている疑いのある、そのような価値観をあらわにして、目から鱗が落ちて、新しい展望が拓けるきっかけになりうる大切なものでした。難しいけどね。みんな自分を守りたいから。

でも、いったんはとにかく相手の立場に立って、その価値観を共有したとして、そこから導かれる結論が、相手の主張する事柄だけではないのではないか、こういうことも、ああいうことも導かれるのではないか、そういうふうに想像力を働かせることが大切なんです。そうするなかで、それまで否定的に見ていた相手の価値観が違って見えてきたり、逆に自分が囚われている価値観があらわになり、その欠点が見えてきたりもするんです。

そして、最終的には相手の価値観を受け入れるか拒否するか決断しなければならない場面があるとしても(実際には決着をつけなければならない場合も多いですから)、しかし本質的に大切なことは、どちらが正しいか決めることではなく、それをめぐって議論が続く、ということだと思います。だって、論証といっても、相手あってのコミュニケーションなんですから。

論証とはつねに「対人論証」なのである。(野矢茂樹『新版 論理トレーニング』64頁、asin:4782802110


その上で、野矢さんは、「あえて反論する」というトレーニングのひとつの狙いについてこう書いています。

あえて反論するということは、あえて言えば「子どもの所業」の立場に戻って検討するということにほかならない。大人の意味理解に異を唱えるのはたしかに子どものすることかもしれないが、うかつに意味理解を共有してはならない場合もあるのである。(同書67頁)


ただ、やっぱり僕らはたんに聞き流したり、読み流してしまうことが多くて、相手の論証、すなわちどんな根拠からどのように結論が導出されているかというところで立ち止まって吟味することが苦手です。だからこそ、論理トレーニングをする必要もあるわけですが、心構えとしては、「懐を深〜く」という感じでしょうか。

そういうわけで、今回はフトコロをふか〜くして、論証の細部に立ち入り、さらにその背景も見渡すことになります。