別れ

Ink-Keeper's Apprentice

Ink-Keeper's Apprentice

16歳のキヨイは身近な人たち、そしてそれまでの自分と別れる準備を進める(第19章、最終章の後半)。

キヨイはスケッチブックだけを残して、アパートの部屋をいったん引き払った。荷物はすべて祖母の家に運び、帰国するまで預かってもらうことにした。最後の数日を祖母の家で過ごした。孫のアメリカ行きを快く思っていない祖母は最後までキヨイに日本人であること、日本語を決して忘れるなと忠告し続ける。

キヨイはReikoとは二度と会うことはなかった。オルゴールのプレゼントは郵送したのだった。Michikoには金のピンと木炭画を直接手渡した。Michikoは別れ際に、やはり、手紙を書く時には兄さんと呼びかけても構わないかどうかキヨイに尋ねたのだった。

渡航三日前に、先生(野呂新平)はキヨイと時田をドジョウを食いに田舎風の料理屋に連れ出した。送別会だった。キヨイが12歳で野呂新平の弟子になることを決意して仕事場をひとりで訪ねたのは三年前だった。先生はその三年間を振り返り、キヨイのしっかりとした心構えと才能を褒め、助手としての仕事を立派にこなしてくれたことに感謝し、最後に貴重な忠告をする。

 キヨイ、お前はこれからの人生で多くの師(mastars)に出会うことになる。だが、一番大切なのは、師のもとを去るタイミングを知ることだ。いいか、忘れるな。一人の師のもとに長居してはいけない。そこで成長が止まってしまうからだ。一人の師から学べるだけのものを学んだら、そこを去るんだ。無情になれ。お前が唯一仕えるべきはお前の芸術だ。お前の芸術に忠実であれ。いつかお前も師になる日がやってくる。そのときには振り向いてお前の知恵を求める者に手を差しのべるんだ。いつかお前にも師にとっては弟子が去るのはいかに辛いことか分かる日がやってくる。そのときには思い出せ。可愛い子には旅をさせろ(let your beloved child journey)。(三上訳、p.148)

ドジョウ屋での送別会が終わり、三人で駅に向かう途中、時田は、父親からもらって大事にしていたはずのドイツ製の髭剃りを、そろそろお前にも必要になる、と言ってキヨイにさりげなく渡した。先生は、今生の別れではないから、見送りには行かない、とキヨイに告げる。そして最後に親身な言葉をかける。「うまくやれよ、キヨイ、もし話したくなったらいつでも手紙を書いてよこすんだ。お前は大切なやつだ」。時田は最後にこう言ってニヤリと笑った。「連中にお前の凄いところを見せてやるんだぞ、キヨイ。お前は誰にも負けない」。

 僕は改札口に立っていた。去って行く先生と時田の背中をじっと見ていた。先生は長い着物を着ていた。時田は杖をたよりにヨタヨタ歩いていた。さようなら、先生。じゃあね、兄貴。僕は二人が雑踏の中に消えるまでじっと見ていた。二人は振り向かなかったのが嬉しかった。僕はその場で人目も気にせずすすり泣いた。(三上訳、p.149)

翌日の夕方、キヨイは空っぽのアパートの部屋に行った。そこには数冊のスケッチブックだけが残されていた。

 僕はスケッチブックを持ってアパートの隣の空き地へ行き、そこで小さな焚き火をした。そしてスケッチパッドを引きちぎっては火に焼べて、燃えるのを見つめた。小さな火の嵐の中で次々とページはひとりでにめくれていった。裸体のデッサンの手と脚と足はちりちりになり、いったん暗くなってから、ぱっと燃え上がった。火は子供の頃を思い出させた。生まれた家のことを思った。その家は戦争で焼失したのだった。その出来事は何かの終わりを意味していた。そして戦争の終わりは他の何かの終わりを示していた。それから両親が離婚した。今、僕は母、先生、時田、そして自分が生まれた国を去ろうとしている。僕の人生には鋭い断絶がたくさんあるような気がした。でも一つの時期の終わりは次の時期の始まりを意味していた。
 1時間ほどで僕のデッサンはすべて灰になった。僕は浄化されたような気分だった。見知らぬ国で新しい人生を始める準備ができた。(三上訳、p.149)