for my sake

Ink-Keeper's Apprentice

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心の底では母のためにアメリカ行きを決心したキヨイは、しかし、あくまで「自分のために(for my sake)」そう決心したのだと思い定める。無事退院した時田に対しても、再び祖母の家で会った母に対しても、そして4年ぶりに会った父に対してもそう語るにとどめた。15歳にしてすでにキヨイは周囲の大人たちよりも自立した大人になってしまった(第18章)。

「自分のために」という動機の裏に触れる印象深い会話が、退院直後の時田との間で交わされる。

「日本で漫画家になればいいじゃないか。一緒に働けると思っていたよ」と時田は本音をもらす。「月に行くわけじゃなし、数年で戻って来て、一緒にスタジオを構えられるさ」とキヨイは慰めるように答える。しかし、時田はそれを鵜呑みにはしない。そして、鋭い所を突く。「いや、キヨイ、行ったらそれまでさ。お前は今のお前じゃなくなってしまう。俺が大阪に帰るのと似たようなもんだ。アメリカはそんなにいいところだと思ってるのか? 何かから逃げようとしてるんじゃないのか?」「いや、そうじゃない」とキヨイは苦し紛れに否定するしかなかった。「じゃ、なぜ行くんだ?」と時田は畳み掛ける。キヨイは母のことには触れずに、今の気持ちを自分で責任の負えるぎりぎりの言葉で表わす。「分からないんだ、時田。新しい場所に行きたいだけかもしれない。そんな気持ちになったことないかい? 自分のことを誰も知らない見知らぬ国に行きたいとか?」時田はキヨイをしっかりと見つめながら言う。「そうか。俺もそうだった。大阪から東京に来たのはそれさ。今はお前がそうすべき時なわけだ。お前がそんな気持ちでいたなんて知らなかった。よし、お前の言ってることは分かった。お前はしばらく一人っきりになりたいってことだ。でもこれだけは言っとくぞ、キヨイ、もしうまく行かなかったら長居はするな。戻って来たって失うものはないんだ。やりたいようにやれ、他人には耳を貸すな」(台詞部分三上訳、p.135)

「自分のために」という動機の裏にはりついた気持ちについては、改めてこう語られる。

……母は強い意志をもった女だと分かっていた。母は僕が自分のためにアメリカに行くことを喜んだ。僕は僕で母の人生の邪魔にならないことが嬉しかった。母はいつ再婚するだろうか。(三上訳、p.137)

4年ぶりの父との再会の場面は、寒々しい印象を残す。言動のはしばしから身勝手さが窺える父親に対しても、キヨイは「息子」らしくけなげに振る舞おうとし、気を遣う。父親を評価する言葉は一つも使われないが、淡々とした描写の中に、キヨイの不安が暗示される。

……父は急いで歩き去った。振り返らなかった。(三上訳、p.141)