原広司は『集落の教え 100』(彰国社、1998年)の中でアジールについて「制度内設定」の観点から次のように述べる。
アジール agir (このagirに引っ掛かった人も少なくないと思いますが、実は2012年1月2日に小島剛一さんから何かの間違いであるとの指摘を受けて、彰国社書籍編集部宛に問い合わせたところ、3月19日になってようやく著者に確認が取れ、やはりagirは間違いで、ドイツ語のAsylが正しいとの回答がありました。訂正は5月に出る13刷に反映されるそうです)は、支配的な制度内で認められている相対的に自由な場所を指している。日本の歴史では「駆け込み寺」が、その好例である。…アジールは制度的な設定であるから、建築的に閉ざされているとはかぎらない。…アジールは、監獄と対照的な領域である。支配的な制度から逃れるための領域と、制度が封じこめるための領域である。したがって主体の意志と制度とのかかわりにおいて、対照性がある。制度のうえからすれば、最も単純な都市のモデルは、日常的な領域の中に、監獄とアジールの二つの閉じられた領域がある図式によって示されるであろう。こうした意味からすれば、程度の差こそあれすべての集落にはアジールがあると考えられる。それが、日本の祭りのように、フィジカルというより、テンポラリーに設定される出来事にみられる場合もあるだろうし、インドの集落のカースト制と領域「トーラ」のような場合もあり、一般には認識しにくい制度上の設定である。…(原広司『集落の教え 100』50頁〜51頁)
少し補足的に敷衍するなら、アジールは、支配的な制度から逃れるための領域であるが、そのような領域はあくまで支配的な制度内で認められる相対的に自由な場所でしかないという点に、制度という形で人心に浸透する権力なるもののしたたかな性格が窺える。権力はあえて制度的にアジールを設けておくことによって支配を持続させようとする。その点を踏まえた上で、どんな空間も私の意志しだいである程度アジール寄りにも監獄寄りにもなることに注目したい。しかも、ソローが人頭税不払いという権力に対する反抗によって投獄された体験に基づいて語ったように、監獄の中の方が自由であるという逆説が生じる場合もある。だから、アジールに関しても「制度内設定」の観点だけから見るのではなく、辺見庸が『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社、2006年、asin:4620317748/角川文庫、2010年、asin:404341711X)の中で述べたように、「アジールの精神」という観点から見ることも必要になる。
アジール(asyl)---「不可侵の場」を意味するギリシア語を語源とする。統治権力の手が及ばない避難所=アジールは西欧でも日本でも古来みられた。現代においてアジールの精神は、生きることに困難を抱えたホームレスや難民、移民を受け入れ歓待するという、人間が互いの基本的な生存権を支え合う機能に生かされるべきであろう。(辺見庸『いまここに在ることの恥』毎日新聞社153頁/角川文庫163頁〜164頁)
ただし、もう少し正確に言い直すなら、まず寛容、歓待、支え合いといった余裕の態度こそが、アジールの精神であるということ、そして、付け加えなければならないのは、そのようなアジールの精神は自然発生するわけではないということである。ほったらかしでは、精神は容易に監獄化してしまいかねない。その意味では精神のアジール化こそが課題と言える。その点に関して、私は毎朝の散歩でも、あるいはどこへ行っても、先日訪れた中国各都市でも、アジール的な空間を探して歩いているというよりは、歩くことを通してそこに少なくとも「テンポラリー」に(時間的に)アジールを創出しようとして、内面に浸透した「制度」的なるもの、そして内面の監獄化と闘っているところがある。目には見えない消耗戦みたいなものだが、散歩の時間こそがアジールであると実感する時もある。
今朝、ある裏道でシチダンカとオオヤマレンゲの写真を撮っているときに、背後から見知らぬお婆さんに声をかけられた。その近所に住む一人暮らしのお婆さんだった。お婆さんは近所に咲く花、近所の住人との関係、40年前にその土地に越して来たときの経緯、当時の環境、かつての職業、現在の心境にいたるまで澱みなく話し続けた。私はお婆さんの話を感心しながら聞いた。最後にお婆さんは「住めば都っていうけど、本当、ここに住めて幸せだよ」と言って微笑んだ。そのわずか10分ほどの時間と私たちが立っている裏道という場所が「統治権力の手が及ばない避難所=アジール」のように感じられた。