ゲームの終わり

二十歳そこそこの悩み多き学生たちと接していると、その年頃には自分はどうだったかな、と自然と振り返っていて、そういえば、マルセル・デュシャンに夢中だったな、なんてことを思い出しもし、本棚から古い本を引っ張り出してきて読みふけっていたりする。「解決などありはしない、問題がないのだから」のようなウィトゲンシュタインを彷彿とさせる命題にあの頃痺れた感覚が他人事のように甦ったり、この歳になったからこそ目をみはる箇所があったりして面白い。そうやって二〇年以上ぶりにマルセル・デュシャンに再会する、マルセル・デュシャンのある面にいかれた幼い自分に再会する。五十歳過ぎた自分が惹かれるのは次のような件である。デュシャンはチェス好きでも知られ、1932年にはチェスについては古典となっている論文「対立と動詞活用された盤の目が和解する」を執筆した。後年、あるインタビューの中でそれを振り返って語ったことに深く頷いていた。その論文は、ゲームがそこに向かって進み、それが最後にとる形、ゲームの終わりの可能な形、それも極めて稀な形についての問題を扱ったものだった。それは「ユートピア的な問題」といってもいい。デュシャンはなぜそんなどんな指し手も興味を抱かないような問題に没頭したかというと、それこそ、ゲームなるものが、本当にただの一度だけ現実の生活と関係をもつ接点だと考えていたから、という内容のことを答えた。ゲームなるもので本質的に重要なのはその終わり方である。ゲームの終わり方、終え方の自覚の深さにその人の生き様が表われる。人生が死ぬまで降りられないゲームだとするなら、そのゲームにおいても教訓に満ちた話だと思う。

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)