時代を超えた時


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石牟礼道子苦海浄土』は、湯堂湾と湯堂部落の自然と人事が深く織り成した美しい情景の見事な描写から始まる。その中の「村のよわい」という一見何気ない表現に惹き付けられた。壊れやすく、壊れても気づかれにくい人の心の奥底の時の熟成の回路のようなものを垣間見た気がした。

 ここらあたりは、海の底にも、泉が湧くのである。
 今は使わない水の底に、井戸のゴリが、椿の花や、舟釘の形をして累々と沈んでいた。
 井戸の上の崖から、樹齢も定かならぬ椿の古樹が、うち重なりながら、洗場や、その前の広場をおおっていた。黒々とした葉や、まがりくねってのびている枝は、その根に割れた岩を抱き、年老いた精をはなっていて、その下陰はいつも涼しく、ひっそりとしていた。井戸も椿も、おのれの歳月のみならず、この村のよわいを語っていた。(11頁)


「よわい」は「齢」と書き、普通は年齢、それも「老い」に重点を置いた年齢の「重ね」を意味する。手元の『新潮国語辞典 現代語・古語』には「世這い」が語源らしいという記述があり、ハッとした。「世」すなわち時代や社会の底を蛇のようにゆっくりと「這う」動きをイメージした。


この「村のよわい」という表現から、夏目漱石の「時が附く」という変わった表現を即座に連想した。夏目漱石が二年間のロンドン留学で疲弊した心をつかの間癒すことになったスコットランドのピトロクリ滞在の思い出を綴った「昔」と題した文章の中で用いた表現である。以前紹介した多胡吉郎『スコットランド漱石』(asin:4166603981)で知った。

 ピトロクリ滞在から六年あまりが経った一九〇九年の初め、東京朝日新聞に連載した「永日小品」という作品の中で、漱石は「昔」という一章を設けて、ピトロクリの思い出を綴っている。新聞連載の一回分であるから、ごく短い作品だが、「永日小品」二十五編の中でも、とりわけ印象的な美しい文章である。

ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の静かな谷の空気を空の半途で包(くる)んで、じかには地に落ちて来ぬ。と云って、山向へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつまでも落附いて、凝(じ)っと動かずに霞んでいる。其の間に野と林の色が次第に変わって来る。酸いものがいつの間にか甘くなる様に、谷全体に時代が附く。ピトロクリの谷は、此の時百年の昔、二百年の昔にかえって、安々と寂びて仕舞う。人は世に熟れた顔を揃えて、山の背を渡る雲を見る。其の雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。

(34頁〜35頁)


多胡吉郎氏は漱石の滞在から百年後にピトロクリの谷を訪れて、漱石が訪れた当時と殆ど変わりない景観を保っていることに驚き、漱石が感じた「昔」そして「時が附く」の意味についてこう敷衍している。

谷全体が時代を超えた時を呼吸している。百年という時間を、まるで今日と昨日を隔てる程度にしか感じさせないような、ゆったりとした時の流れがある。(36頁)


そこに時が根づいて熟成していると言ってもいいだろうか。一方、われわれは時が根っこを引き抜かれた社会で、時代に流される人生を送っていると言えるのではないだろうか。そしてそれが常態である眼には、湯堂湾やピトロクリの谷の景観は単に古く、寂れたものとして、あるいは時代の流れに無益に逆らって、時代の流れから取り残されているようにしか見えないだろう。しかし、石牟礼道子夏目漱石がおそらくそうであったように、われわれもまた、社会の底、時代の流れの底を這うようにしながら、自分が生きる場所に時を根づかせ熟成させることは不可能ではないと思う。